「花見目次」 「玄関」

故 郷ふるさと

 降りしきる薄紅の花びら。そして、花吹雪の中で微笑む伴侶ひと。目を閉じると、心にそんな情景が浮かぶ。また今年も、桜の季節が巡りくる。
 空が淡く霞み、陽射しが暖かくなる。風が柔らかくなり、水が温み、季節がゆっくりと移ろってゆく。
 そんな中で桜開花の一報が入り、陽子は目を輝かせて執務に励む。満開の桜花に迎えてもらう時間を、自ら捻り出すためだ。
 初めて花見をした昨年は、気紛れな伴侶に執務中に連れ出された。その後、戻ったときの景麒の嫌味といったらなかった。あまり台輔を心配させないように、と冢宰浩瀚は微笑した。
 ──周囲の者に心配をかけ、政務を代わってもらって迷惑をかけた。それでも、無理矢理連れ出してくれた伴侶に感謝した。桜は、忘れていた温かなものを、陽子に思い出させてくれたから。

 まだまだ落ち着かない国の女王として暮らす毎日。覚えなければいけないことも、しなければいけないことも膨大な量に上る。有能な臣下に支えられ、何とか仕事を進めているが、それだけでは足りないだろう。
 次第に逸る心、そして眉間に刻まれる皺。陽子を支える力でもあり、友人でもある祥瓊と鈴が、少し休めと心配する。そんな声をいつも、大丈夫、と受け流してきたのだ。

 己の伴侶──延王尚隆は、陽子が自ら休む気にならないことを知っていた。肩に力が入りすぎて、心に余裕がなくなっていることも。
 陽子は溜息をつく。自分では、焦っているつもりなどないのだけれど。それでも、まだまだ心逸り、焦りが出るのだ。
 舞い踊る桜吹雪を浴びて、心が安らいだ。祥瓊や鈴の心配も尤もだ、と素直に思えた。焦らず、急がず、一歩ずつ歩んでいこう、そう決めたはずなのに、いつしか忘れてしまう。
 忘れたことは思い出せばいいのだ、と尚隆は笑う。陽子も笑みを返した。そう、忘れていることを思い出すために、今年もまた桜を見にいこう。こよなく桜を愛する伴侶とともに、和やかに花見をしよう。
 満開の桜が咲き誇る頃、気儘な伴侶がまた唐突に迎えに来るのだろう。それまでに仕事をできるだけ片付けておこう。そう思うと自然と政務にも熱が入る。

「桜が咲いたそうですね」
「よく知ってるな」
「主上のご様子で分かりますよ」
「浩瀚には敵わないなあ」
 冢宰浩瀚が笑い含みに声をかけてきた。察しのよい臣に、陽子は笑顔で応えを返す。
「今年は皆に迷惑をかけないように、頑張って仕事を片付けるよ」
「期待しておりますよ」
 浩瀚はそう言って涼しげな笑みを見せた。陽子は大きく頷いて、また笑みを返した。

 それから数日後、延王尚隆が金波宮に現れた。その突然の来訪に、眉を顰める者はいなかった。準備を万端に整えて待っていた陽子は、皆に見送られて颯爽と王宮を後にした。
「──今年は随分と待遇がよいな」
「私の眉間の皺が消えたからだよ」
 首を傾げて苦笑する伴侶に、陽子は軽く笑いかけた。なるほど、と尚隆は破顔する。
 そしてまた、枝いっぱいに花をほころばす桜が二人を出迎えた。遠くから見ても美しい、薄紅色の桜花。陽子は満面に笑みを湛え、満開の桜の下に降り立った。
 見上げると、春風に舞い踊る薄紅の花びらと、淡く霞む青い空があった。ああ、なんて綺麗なんだろう、と陽子は感嘆の溜息を漏らす。尚隆はそんな陽子と桜を見比べ、優しい微笑みを浮かべていた。

 ひとしきり桜を眺めた後、陽子は桜の根元に佳氈を広げた。それから、尚隆用に酒と酒肴、自分用に茶と甘味を取り出す。その手際のよさに、尚隆は思わず目を見張る。
「──今年は、随分と用意がいいな」
「うん。お花見だもの。軽くつまめるお弁当がないとね。あなただって、去年お酒を持ってきてたじゃないか」
 陽子は尚隆ににっこりと笑いかけた。そして尚隆を促し、桜の根元に腰を下ろした。和やかな花見の始まりであった。
 久しぶりに会う伴侶と、他愛のない話をした。薄紅の花びらが、風が吹くたびふわりふわりと舞い落ちる。性急に過ぎ行く雑多な日々から解放され、心はゆったりと和んでいた。
「確かに、眉間の皺がなくなったな」
「うん、ずっと楽しみにしていたお花見だからね」
 笑い含みにそう言う尚隆に、陽子は満面の笑みを返す。尚隆は満足そうに頷き、限りなく優しい笑みを見せた。この笑みを見たかったのだ、と陽子は思う。
 何度も何度も夢に見た、降りしきる桜吹雪の中で微笑むひと。春が近づくにつれて、心が逸った。それは、何故だったのか。舞い散る桜花と微笑む伴侶を眺め、陽子は胸に痛みを覚えた。

 桜のように、散り際は潔くありたい──。

 去年、このひとが漏らした言葉を、陽子は再び思い出す。そのときには笑って送ってあげる、と答えて陽子は笑みを返した。しかし──。
 そんなふうに置いて逝かれたら……そう思うだけで涙が滲んだ。お前を置いては逝かぬ、とは言わないひと。そんなことは分かっている。不確かな遠い先の話は約束しない、それがこのひとの優しさ。
 それなのに、今なお涙が浮かぶのは何故だろう。このひとは、約束を守ってくれたのに。言を違えたりはしなかったのに。

 来年もまた二人でここに来よう。

 去年そう約束した。そして今年もまた、二人でここを訪れることができた。嬉しいはずなのに、何故、瞳が潤むのだろう。
 桜吹雪と、その中で優しく微笑むひと。既知感に目眩がした。そう、繰り返し繰り返し夢に見た風景。待ちに待った瞬間。
 胸に浮かんだ情景は、舞い踊る桜花の下で、普通の恋人同士のように肩を寄せ合う陽子と尚隆。あちらの世界では、当たり前のこと。

 ああ、この出会いは奇跡なのだ、不意にそう気づく。普通に暮らしていれば、決して出会うことはなかったのだ。──あちらでも、こちらでも。

 王と王でなければよかったのに。せめて、どちらかが王でなければ、ずっと一緒にいられたかもしれないのに。その思いをいつも拭い去れなかった。けれど、王と王でなければ、出会うことすらなかったのだ。それは、五百歳という年の差を思えば当然のことだった。
 異郷で孤独に花びらを散らす、この桜が教えてくれた。普通など、望むべくもない。あちらに帰ることができないように、王であることを忘れることはできない。こちらを選んだときに、痛いほど分かっていたはずなのに。
 滲んだ涙は知らず頬を伝って落ちた。懐かしい桜は、陽子に現実を思い知らせる。そして、心に秘めたものを引き出してしまう。胸を貫く痛い想いを。
 己の物想いに沈んでいた陽子は、ふと尚隆の視線に気づく。黙して見つめ返す双眸に、深い憂いが浮かんでいる。そっと腕を伸ばし、陽子を抱き寄せたひとが、躊躇いがちに問う。

「──陽子。あちらが……恋しいか?」

 いつも強引なこのひとのその問いに、陽子はゆっくりと首を振った。そうではない。恋しいのはあちらではない。散りゆく桜はいつも涙を誘う。でもそれは、郷愁とは違うのだ。愛しいひとを見上げ、陽子は声に出して応えを返す。
「──そうじゃない」
 陽子は伴侶の胸に身を預けた。恋しいのはあちらではない。

 恋しいのは──そう、あなただけ。

 涙を拭う唇を感じ、瞳を閉じた。長く甘い口づけの後、陽子は伴侶にそっと囁く。
「所縁のこの花を──今年もあなたとともに見ることができて、幸せだよ」
 万感の想いを伝えると、また涙が零れた。尚隆は微笑んでその涙を拭った。そして、口づけを交わす。その広い背に回した腕に力が籠もる。

 ──二度と帰れないあちらを恋しがったりしない。あなたを選んだあのときを忘れはしない。帰る処はあなたのこの胸だけ。何もかも受けとめるこの胸が、ただひとつの故郷──。

 唯一の温もりを確かめあう二人の上に、桜はただ花びらを散らしていった。互いに異郷を胸に抱く二人を慰めるかのように。やがて、尚隆は低く優しく囁く。

「また、この花を見に来よう。時が許す限り、ずっと」

 誓いの言葉にも似たその響きに、陽子は目を見張る。それから、花がほころぶように笑みを浮かべ、頷いた。

2006.05.14.
 桜が咲く頃までに仕上がるといいな、と思っておりました。 桜が散る前に仕上がって、ほっとしております。 といっても、大方の地域では、もう初夏の風が薫っていることでしょうね。
 坂の上にある通称「桜公園」でお花見をし、やっと纏め上げることができました。 私の「桜祭り」がとうとう終わってしまいます。 しんみりしてしまったのは、そんな気持ちが強いからかもしれません。

2006.05.14. 速世未生 記
背景画像「篝火幻燈」さま
「花見目次」 「玄関」