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花 見

 吹きわたる風は暖かく、射しこむ陽射しは柔らかい。そして咲き誇る色とりどりの花々。麗らかな春の陽気が慶東国にも訪れていた。
 王都堯天、天高く聳える凌雲山の頂にある金波宮。国主景王は宰輔景麒、冢宰浩瀚とともに執務室にて案件の審議をしている最中であった。
 先触れもなく突然その扉が開かれ、明朗な男の声が響く。景王陽子は驚きもせず、その声の主を見上げる。
「──陽子、花見に行くぞ」
「いきなり、何です?」
 いつもの如く前触れもなく現れた延王尚隆は、当然のように用件のみを述べる。いつものことながら、己の伴侶のその唐突さに、景王陽子は呆れ顔で大きな溜息をつく。
「だから、花見だ。今を逃すと、また来年までお預けだからな」
「──私は今、仕事中なんですけど」
「お前は眉間に皺が寄りすぎている。少し休め。そういうわけだ、景麒、浩瀚。お前たちの主を少し借りていく」
 隣国の王は誰にも有無を言わせない。その言に、陽子の傍らに座る宰輔景麒は渋い顔を見せ、冢宰浩瀚は苦笑する。陽子はもうひとつ溜息をつく。花見どころではない状況だというのに。
 しかし、尚隆はそんなことには頓着しない。では行くぞ、と強引に腕を引かれ、陽子は困り顔で冢宰を見つめる。浩瀚は苦笑を浮かべながらも頷いた。
「──気分転換も必要でございましょう」
 浩瀚の言葉に、景麒は憮然とした顔で横を向く。そんな景麒を気にしながらも、陽子は尚隆に手を引かれ、金波宮を後にしたのだった。

* * *    * * *

 久しぶりに降りる下界には暖かい風が吹いていた。いつの間にか季節は移ろっていたのだ、と陽子は思う。騶虞すうぐを操る尚隆の横で、班渠に跨った陽子は訊ねる。
「──花見って?」
「桜だ」
「え? ──桜があるのか?」
 常世でも花見ができるのかと驚く陽子に、数はあまり多くないが、と尚隆は軽く笑う。へえ、と感心する陽子に尚隆は笑みを向ける。ほら、あそこだ、と。
 枝いっぱいに花をつける桜を見つけ、陽子は感嘆の声を上げた。こんなに美しい桜を見たのは久しぶりだ。そういえば、故郷では入学式の頃に咲いていたような気がする。懐かしさに思わず溜息をついた。
「──美しいだろう?」
「うん……」
 地上に降り立ち、桜を見上げた陽子は、その薄紅の花びらに見とれた。感動がじわりと胸に広がった。こんなふうに何かに心を動かされることなど、最近なかったと気づいた。

 落ち着かない国を背負う女王として、常に忙しい日常を送っていた。宮城を出ることも、そうそうない。そういえば、眉間の皺を指摘したのは尚隆が初めてではない。少し前に、祥瓊と鈴がそう言っていた。そのときは大丈夫、と受け流してしまったような気がする。
 陽子はそのまま桜を見上げ、風が吹くたびに舞い落ちる薄紅の花びらに手を伸ばす。祥瓊と鈴に持って帰って、一緒にお茶を飲もう、この花びらをお茶に浮かべよう。海客の鈴は、この桜を懐かしむことだろう。そして、いつも心配をかけている景麒や浩瀚にも、桜入りのお茶を淹れてあげよう。そう思うと、自然に笑顔になった。
 満開の桜花に声もなく見とれる陽子を、尚隆は満足そうに眺めていた。その視線を感じ、陽子は頬を紅潮させて振り返る。尚隆は笑みを返し、桜の根元に腰を下ろした。

「──眉間の皺が取れたな」
 手酌で一杯やりながら尚隆は笑った。つられて陽子も笑みを零す。
「お酒まで持ってきたの。ずいぶん用意がいい」
「花見といえば、これだろう」
「私は高校生だったから、お花見でお酒を飲んだことはないな」
「飲んでみるか?」
 尚隆はにやりと笑い、酒盃を陽子に差し出す。陽子は笑って首を横に振り、尚隆の横に腰を下ろした。そしてまた桜を見上げる。
「──桜は散り際が美しい」
「そうかな?」
「──潔いと思わんか?」
 酒盃を持つ尚隆が笑みを見せる。降りしきる花びらを掌で受けとめながら、陽子は首を傾げる。大きな桜の木の根元に二人で並んで座っていた。

 時はゆったりと移ろっていった。互いに王だ。頻繁に会えるわけではない。こんなふうに尚隆とゆっくり話すのも久しぶりだった。いつも唐突に現れて陽子を引っ張りまわす尚隆。陽子はそれに困惑するばかり。尚隆はそんな陽子を眺めては面白げに笑う。さっきのように。
 ふと尚隆は桜を見上げ、目を細めた。そしてその横顔を見つめる陽子に、また笑みを返す。

「──桜のように、散り際は潔くありたいものだ。そうは思わんか?」
「……そのときは、私だけでも、笑って送ってあげるよ」

 陽子は何故そんなことを口に出したのか、自分でもよく分からなかった。ただ、このひとは桜のように散ってしまいたいのかもしれない、漠然とそう思った。陽子は微笑を浮かべ、尚隆を静かに見つめた。尚隆はしばし黙し、片眉を上げて揶揄する。
「──哀しんではくれぬのか?」
「無論、哀しいよ……想像するだけでもね。でも、それであなたが解き放たれるのなら……私は……」
 言葉にするだけで瞳に涙が滲んだ。それでも陽子は唇に笑みを浮かべたままでいた。想像するだけで、胸が潰れるほど痛む。しかし、それ以上に、このひとが全てから解放されるときを祝福してあげたい──そう思った。
「──無理をするな」
 尚隆は限りなく優しい笑みを見せ、そっと陽子を抱き寄せる。俺はお前を置いて逝かぬ、とは言ってくれないのだ。陽子は自嘲の笑みを浮かべる。それがこのひとの優しさ。先のことなど分かるはずもない。不確実なことを言わない、なんと誠実なひとか。
 いつか訪れる現実なのだ。どちらが先に逝くかは分からないが──。傍らに温もりを感じながら、陽子は目を閉じる。そんなときなど、永遠に来なければいい。

* * *    * * *

「──陽子」
 どれくらい、肩を寄せあい座っていたろう。不意に尚隆が沈黙を破った。陽子は目を開け、尚隆を見上げる。
「また、来年もここに来よう」
「──うん」
 優しい目を向ける尚隆に、陽子は笑みを返した。頭に、肩に降りそそぐ桜花。舞い踊る花びらを見つめ、心は穏やかだった。笑顔も涙も、陽子の素直な感情を引き出し、在るがままに受けとめてくれるひと。

 このひととともに、ずっと歩み続けたい。

 心からそう思う。永の年月をともに過ごそう、いつか訪れる、その日まで。胎果の二人を見守る桜に、陽子はそっと誓った。

 陽子は立ち上がり、手巾を取りだした。片眉を上げて問う尚隆に笑みを返し、舞い落ちる薄紅の花びらを受けとめる。
「お土産だよ。帰ったら、お茶にしよう」
「そうだな」
 再び班渠に騎乗し、陽子は空に舞い上がる。咲き誇る桜をもう一度眺めた。また来年、二人で見に来るから。心で囁きながら。

2006.03.30.
 奏月さま主催「十二国桜祭り」参加作品第二弾でございます。
 ほのぼのとした尚陽を書こう!  と思いつつ書き始めながら、少ししんみりしてしまいました。 私は「桜=涙」から離れられないような気がしてきました。 舞い散る桜を見ると、何故だか物悲しくなってしまうのです……。

2006.03.30. 速世未生 記
背景画像「篝火幻燈」さま
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