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春 盛はるざかり

 高岫を超えると、隣国は春の盛りであった。風は甘い匂いを孕み、野山は百花繚乱の態である。
 自国では初夏の風が薫っていた。温暖な慶では冬にも花が絶えることはない。が、冬にほころびるのは雪花だけの雁では、慶では順番に開く花々が、一緒くたに咲いている。

「うわぁ……」
 北国の春とは、こんなにも華やかなのか。

 景王陽子は北国の遅い春の風景に感嘆した。その思いは、王都に近づくにつれて増していった。
 まだ雪残る斜面に顔を覗かせる可愛らしいフキノトウ。と思えば、陽当たりのよい斜面には黄色い花が群れて咲いている。そして、雪融け水が流れこむ小さな沢にもまた別の黄花が開き、陽子の目を楽しませた。
 開けた野原にはタンポポらしき花が見られる。他には何があるのだろう。陽子は班渠の背の上できょろきょろと辺りを見回した。山の木々には白い花がぽつりぽつりと咲いている。木蓮にも似たその花を珍しげに眺め、陽子はふと目を留める。山の中腹が、桃色に染まっていた。

 いったいあれは何だろう。

 陽子は首を傾げる。そのとき、笑い含みの声が陽子を窘めた。
「──主上」
「分かってるよ」
 班渠に諌められるまでもない。雁を訪れたのは、公式行事に出席するためだ。今は寄り道をしている暇はない。あそこに降りてみたい。そう思う心をなんとか押し止め、陽子は後ろ髪を引かれる思いで玄英宮に向かったのだった。

 久しぶりに訪問した雁の王宮は厳粛な雰囲気を保っていた。格式張るのが苦手な雁国主従も、このときばかりは大人しく礼装で隣国の女王を迎えた。陽子は内心の笑いを堪えつつ、公式行事に臨んだのだった。
 公の式典が恙なく終わり、華やかな宴が始まった。あれこれと世話を焼く女官が席を外してから、陽子は軽く溜息をつく。すると、すぐに笑い含みの問いが降ってきた。
「何やら悩ましい溜息だな。どうやら雁は景王を寛がせるもてなしができないようだ」
 盛装姿の延王尚隆が、さも面白いものを見つけた、とばかりに軽口を叩く。陽子は声を低め、真面目に応えを返した。
「延王。そんなことはないですよ。ただ──」
 気になるものを見つけただけで、と続けると、雁の国主はにやりと不穏な笑みを見せた。
「それはそれは。是非とも確かめに行かねばならぬな」
「延王、私はそんなつもりで言ったわけでは……」
 慌てて言い募る陽子を無視し、頃合いを見て抜け出すぞ、と尚隆は耳打ちする。こうと決めたら譲ることがないのが延王尚隆だ。陽子は苦笑を浮かべ、小さく頷いた。尚隆は満足げに離れていったのだった。

 首尾よく宮城を抜け出して、延王尚隆は楽しげに笑う。陽子は半ば以上呆れながら問うてみた。
「──ほんとうによろしいのですか?」
「いまさら何を言っておる。窮屈な儀式は終わったのだぞ。後片付けは臣の仕事だろう」
 蒼穹を舞いながら、尚隆は陽子の言を軽く笑い飛ばした。そして、悪びれもせずそう言い放つ。陽子は深く嘆息した。
「いつものことだけど、私は雁の官吏でなくてよかったと心から思う」
 こんな主を戴いてしまったのならば、毎日どれだけ困惑させられるだろう。本気でそう思う陽子に、尚隆は暢気な応えを返す。
「そんなに褒めなくてもよいぞ」
「褒めてるように聞こえるわけ?」
「無論だ」
 即座に返されるお気楽な言に、陽子は深い深い溜息をつく。すると、班渠が低い笑い声を立てた。尚隆は我が意を得たり、とでもいうように楽しげに笑って問う。
「──で、いったい何を見つけたのだ?」
「中腹が、桃色に染まる山」
 漸く本題に入ったか、と思い、陽子は簡潔に答える。場所は班渠が知っている、と続けると、尚隆は訝しげに陽子を見つめた。
「関弓に程近い所に桃色の山を見つけたんだ。いったい何があるのか気になって……」
 雪のほかにも珍しいものがあるのだな、と陽子の言葉を遮って大笑いする伴侶。陽子は負けじと即座に応えを返す。
「いつもふらふらしているくせに、知らないこともあるんだね」
「──漸く肩の力が抜けたな」
 陽子の憎まれ口をものともせず、伴侶は不意に優しい貌をする。図らずも頬を染めて顔を逸らす陽子を、伴侶は楽しげに眺めていた。

 やがて、桃色に霞む山が視界に入った。班渠は徐々に高度を下げていく。それにつれて、山の中腹の桃色は、鮮やかな濃淡の彩りを見せる。視線を泳がせていた陽子は、再び息を呑んだ。
「──桃の花?」
 華やかなその色は、慶でよく見られる桃花に似ている。しかし、伴侶は冷静に陽子の呟きを否定した。
「桃ではないだろう。雁は寒いからな」
 寒冷の地である雁では桃が群生することはない。伴侶はそう続けた。これが桃じゃないなんて。陽子は首を傾げる。伴侶は、降りてみれば分かるだろう、と笑った。それを受けて、含み笑いをした班渠が桃色の海を降りていく。
 今を盛りに咲き乱れる美しい花々をじっくりと眺め、陽子は目を見張った。桃の花だと思った。雁では桃がこんなに群れて咲くことはない、と言われても、花に疎いひとの言うことだ、と疑っていた。それなのに。
 房になって咲きほころびる切れこみのある大きな花びら。鼻腔をくすぐる芳しい匂い。それは、確かに桃のものではなかった。花の正体が分かっても、俄かには信じられない。そんな陽子を見て、伴侶は笑って断じた。

「どうやら桜のようだな」

「香りは桜なんだけど……花の形も桜なんだけど……」
 やっとのことで絞り出す言葉を、目の前の優美な花が吸い取っていく。この香りは、花とともに萌え出づる葉が醸すものだ。そう思いつつも再び絶句する陽子を、伴侶が楽しげに促した。
「なんだけど?」
「こんなに桃色の桜は初めて見たよ……」
 漸く続け、陽子は感嘆の溜息をつく。そして、うっとりと桃色の桜を見つめた。陽子が知る桜とは全く違う、華やかな花を。

 ああ、桜といえば、薄紅の花だった。横に張り出した枝を淡い紅に染め上げる花。吹雪のように花を散らし、その後に若葉が萌え出す故郷の桜。あの花の名は、確か──。

「染井吉野、という桜だった……」

 卒業式や入学式に花開き、学校を彩る花だった。懐かしさで胸がいっぱいになる。しばし黙する陽子の耳に、微かな苦笑が聞こえた。

「──桜は、桜だ」

 伴侶は桃色の桜を眺めていた。わけを問う陽子の視線を受け流し、伴侶は微笑して続けた。

「どちらも桜でよい」

 なんて尚隆らしい言葉なんだろう。陽子は遠慮なく大笑いした。
「あなたは、桜餅のときもそう言っていたよね」
 道明寺と長命寺、どちらが桜餅か。そんな些細なことで、六太と睨み合いをしたことがあった。そのときにも、このひとは今と同じことを言って二人の喧嘩を笑い飛ばした。そうして、二種類の桜餅を美味しそうに食べたのだ。
 それが真実だろう、と笑うひとに笑みを返し、陽子はうっとりと桃色の山桜を眺める。伴侶は思い出したように呟いた。

「そういえば、昔、お前のような桜を見たことがあるぞ」

「──え、どんな?」
 陽子は思わず振り返る。そんな話は初耳だった。頬が桜色だ、と言って陽子の顔に手を伸ばし、伴侶は優しく微笑んだ。
「──ほんのりと頬に紅を差した乙女のように楚々とした白い八重桜だった。今のお前のような」
 大きな手が、優しく頬を包む。伴侶は、想い出の桜を懐かしげに語った。その桜は、白い蕾をつけていた。花がほころびた後は、日を追う毎に色を濃くしていったという。白から薄紅へ、薄紅から緋色へと──。
 伴侶の瞳には、陽子と桃色の桜が映っていた。陽子はそっと目を閉じる。胸に浮かぶ、懐かしい薄紅の染井吉野。そして、まだ見ぬ艶やかで美しい八重桜。
 目を開けると、伴侶が穏やかに笑んでいた。その目は、陽子と桃色の桜を突き抜けて、懐かしい八重桜を見つめているのだろう。陽子は伴侶の大きな手に己の手を重ねて囁いた。
尚隆(なおたか)の桜、いつか見てみたいな」
 きっと、陽子が思い浮かべるよりもずっと綺麗な桜なのだろう。懐かしげな貌をそう語っている。それなのに、伴侶は肩眉を上げて問うてきた。
「それが、あなたの抱く桜、なんでしょう?」
 くすりと笑って答える。伴侶は目を見張った。それから、気まずそうに黙して手を離す。このひとのこんな無防備な顔は珍しい。陽子はなんだか嬉しくなった。

「──そうだな。いつか、あの桜を見に行こう」

 不意に伴侶が破顔する。そうしてゆっくりと桜の根元に腰を下ろした。どうやら本格的に花見をする気になったらしい。陽子は笑みを浮かべて差し出された伴侶の手を取った。いつものように、伴侶の左に腰を下ろして寄り添う。それから、伴侶とともに桃色の山桜を見上げた。

 春には慶の桜でお花見を。楽しい時間は疾く過ぎゆく。舞い散る桜を眺めては、たまさかな逢瀬を懐かしんでいた。けれど。
 今年は、思いもかけず雁の春の盛りを楽しめた。いつもと違う桃色の桜は、いつもと違う伴侶の話を引き出した。今年二度目の花見。

 北国の春盛りをいつまでも忘れない。

 右に伴侶の温もりを感じつつ、陽子はそう思った。

2010.05.19.
 短編「春盛」をお送りいたしました。 昨年書きました短編「懐桜」の陽子視点になります。
 今年の祭は皆さまの様々なコメントに触れて、山間の北の町に住んでいた小さい頃を 思い出しておりました。 あの頃、当たり前のように見ていた風景が、今の街にいては見ることができない。 かなりなホームシックになってしまいました。
 なので、代わりに陽子主上に体感していただこうと思った次第でございます。 何もかもが一緒くたに咲き乱れる北国の春、皆さまにもお楽しみいただけると嬉しく思います。

2010.05.19. 速世未生 記
背景画像 速世未生「故郷の蝦夷山桜」
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