紅梅月毛さま「17万打記念リクエスト」
懐 桜
雁州国王都関弓。国主延王が住まう玄英宮では、公の儀式が開かれていた。いつも気儘な雁国の主も、この日ばかりは壇上に大人しく坐していたのだった。
厳粛な式典が滞りなく終わり、祝賀の宴が始まった。賓客である凛々しき隣国の女王が、小さな溜息をつき、在らぬ方を見つめている。それを見咎めた延王尚隆は、笑い含みに声をかけた。
「何やら悩ましい溜息だな。どうやら雁は景王を寛がせるもてなしができぬようだ」
「延王。そんなことはないですよ。ただ──」
景王陽子はしばし口籠る。視線で促すと、女王は小さな声で応えを返した。
「来る途中に、気になるものを見つけただけで……」
陽子はそのまま目を泳がせる。その視線を捉えて、尚隆はにやりと笑んでみせた。
「それはそれは。是非とも確かめに行かねばならぬな」
「延王、私はそんなつもりで言ったわけでは……」
「頃合いを見て抜け出すぞ」
狼狽える陽子を制し、尚隆は耳打ちする。生真面目ながら好奇心旺盛な女王は、苦笑を見せながらも首肯する。それを確認し、尚隆は陽子から離れた。
「──ほんとうによろしいのですか?」
「いまさら何を言っておる」
首尾よく宮城を抜け出して蒼穹を舞う。尚隆は未だ躊躇いを見せる陽子の言を軽く笑い飛ばした。窮屈な儀式は終わった。後片付けは臣の仕事だ。そう続けると、陽子は女王の顔をして深く嘆息した。
「いつものことだけど、私は雁の官吏でなくてよかったと心から思う」
「そんなに褒めなくてもよいぞ」
「褒めてるように聞こえるわけ?」
「無論だ」
尚隆は悪びれずに答える。陽子は深い深い溜息をつき、班渠は低い笑い声を立てた。予想通りの反応に満足し、尚隆は笑い含みに訊ねた。
「──で、いったい何を見つけたのだ?」
「中腹が、桃色に染まる山」
陽子は簡潔に答える。場所は班渠が知っていた。関弓に程近い所に桃色の山を見つけ、いったい何があるのか気になったのだ、と陽子は語る。
季節は春。風が和らぎ、花の匂いを孕んでいる。そういえば、陽子が春に雁を訪れるのは珍しいことだった。温暖な国を治める女王は、北国の冬が殊の外お気に入りで、雪を見に来ることが多かったせいだ。
「雪のほかにも珍しいものがあるのだな」
「いつもふらふらしているくせに、知らないこともあるんだね」
思わず口から出た言葉に、陽子は間髪を容れず小憎らしい答えを返す。王宮では見せない楽しげな顔する伴侶に、尚隆は唇を緩めて笑みを送った。
やがて、桃色の帯が視界に広がり、二人は高度を下げる。近づいてみると、確かにその山の中腹は鮮やかな桃色に染まっていた。
「──桃の花?」
「桃ではないだろう。雁は寒いからな」
尚隆は陽子の呟きを否定した。華やかなその色は、温暖な慶ではよく見られる桃花に似ている。しかし、寒冷の地である雁では桃が群生することはないのだ。
首を傾げる陽子を、降りてみれば分かるだろう、と促す。そして二人は桃色の靄の中を降りていった。
「──え」
咲き乱れる花をつくづくと見つめ、陽子は目を見張る。尚隆はその様を可笑しげに眺めた。そう、辺りに漂う芳香も、房になってほころびる大振りの花弁も、やはり桃のものではなかった。尚隆は笑いながら告げる。
「どうやら桜のようだな」
「香りは桜なんだけど……花の形も桜なんだけど……」
「なんだけど?」
「こんなに桃色の桜は初めて見たよ……」
言って陽子はうっとりと感嘆の溜息をつく。鮮やかな桃色の花。花とともに萌える葉。すっきりと天高く伸びる枝。何もかもが初めて見る桜だ、と。
そして陽子は己が胸に抱く桜を懐かしげに語った。花色は淡い紅、枝は横に張り出し、散った後に葉が萌え出す故郷の桜を。
「染井吉野、という桜だった……」
陽子の話を聞きながら、尚隆は己の知る桜を思い浮かべてみた。薄紅の花を咲かせ、風に舞い散る桜を。それはぼんやりとしていて、目の前の鮮やかな花のようにはっきりと見えることはなかった。尚隆は苦笑する。野に咲く桜を、屋形の庭に咲く桜を、格段意識して見たことなどなかった。しかし──。
「──桜は、桜だ」
陽子が翠の瞳を不思議そうに向ける。尚隆は桜を眺め、独り言のように続けた。多少姿は違えども、桜は桜。早春に花ほころび、吹く風に呆気なく散らされていく桜は、潔く美しく、尚隆の胸を打つのだ。
「どちらも桜でよい」
「あなたは、桜餅のときもそう言っていたよね」
陽子はそう言って大笑いする。そういえば、桜餅を間に挟み、道明寺だ長命寺だと舌戦を繰り広げていた陽子と六太に、どちらも桜餅だ、と言ったことがあった。尚隆は破顔して返す。
「だが、真実だろう?」
「相変わらず大雑把だな。でも、やっぱりこれも桜だね」
そしてまた、陽子はうっとりと桃色の山桜を眺める。思いもかけず、自国で花見をした尚隆は、己が伴侶によく似た桜を思い出していた。
「そういえば、昔、お前のような桜を見たことがあるぞ」
「──え、どんな?」
振り返った伴侶はほんのりと頬を染めた。桜色の頬に手を伸ばし、尚隆は笑う。そして、いつか見た緋桜の話をした。
今の伴侶のように、ほんのりと頬に紅を差した乙女のように楚々とした白い八重桜。日を追う毎に、薄紅から緋色へと色を濃くしていったあの桜は、艶やかで美しかった。
「尚隆の桜、いつか見てみたいな」
陽子はそう言って桜花のような笑みを見せる。片眉を上げて目で問うと、陽子はくすりと笑って言った。
「それが、あなたの抱く桜、なんでしょう?」
虚を衝かれ、尚隆は黙す。そうかもしれない。遥か昔、惹きつけられ、毎日通いつめたあの緋桜は、尚隆にとって特別な桜だった。麗しき紅の乙女を手に入れて、いつしか忘れていたのだが。
「──そうだな。いつか、あの桜を見に行こう」
笑みを浮かべて言いながら、桃色の桜の根元に腰を下ろす。そう、いつか、思い出の桜を捜しに行こう。だが今は、愛しい伴侶が見つけたこの桃色の桜花を共に眺めよう。
尚隆は伴侶に手を差し伸べる。陽子は匂やかに笑んで尚隆の手を取った。尚隆の左に腰を落ち着けた陽子は、楽しげに桃桜を見上げる。それから、二人は心ゆくまで北国の山桜を堪能したのだった。
2009.05.12.
紅梅月毛さまによる「17万打リクエスト」、短編「懐桜」をお届けいたしました。
題名は漢字を並べただけなので、お好きにお読みくださいませ。
お題は「桜で慶事(尚陽)のお話」でございました。
月毛さま、「桜」「末声」限定リクエストに「桜」のお話を交えてのリクをくださり、
ありがとうございました。
リクをいただいて、私の故郷の桜を書きたいと思いました。
ソメイヨシノしか知らないであろう東京育ちの陽子主上があの桃色の山を見たら……と
妄想したのでした。
エゾヤマザクラは別名を大山桜ともいい、深山に自生する桜でございます。
北の国の北部では普通に見られる桃色の桜をお楽しみいただけると嬉しく思います。
尚、背景画像は自前でございます。
加工技術を伝授してくださったけろこさま、ありがとうございました。
2009.05.12. 速世未生 記
背景画像 速世未生「故郷の蝦夷山桜」