融 月
愛してる。ここにいて。傍にいて。ずっと、ずっと──。
心地よい温もりに包まれる夜。眠ってしまうのが惜しい。そう思いながらも、陽子は伴侶の腕の中で眠りに就く。そして、ふと、浅い眠りから目覚める。──もう、夜が、明けかけていた。
目を開けると、すぐ傍に優しい眼差しがあった。微笑を浮かべる唇が頬に触れ、唇に触れる。そして、愛しい伴侶は身を起こす。朝がくれば、このひとは、隣国の王。そんなことは、分かっているはずなのに。
まだ落ち着かぬ国を抱える未熟な王。それが、陽子の現実の姿。恋に溺れる女王など、臣も民も望みはしない。だから、陽子の恋は、秘められている。
何もかも承知している伴侶は、秘密を守ってくれている。国を離れられない陽子のために、高岫を越えて来てくれる。そして、夜半にそっと陽子の許を訪れて、夜明けまで、陽子を抱きしめてくれる。その、短くも至福のときは、陽子を国主という重圧から解放する貴重なときでもあった。しかし。
内宰の叛乱から、まだ何年も経っていない。未だ景王陽子を受け入れぬ者も多い。もし、あのとき、この恋が暴かれていたならば、陽子の治世は潰えていたかもしれない。だから、陽子の恋は、ほんの一握りの側近にしか知らされていないのだ。
愛しているからこそ、守られなければならない秘密。失いたくないからこそ、この想いに溺れてはいけない。それなのに。
まだ、行かないで──。
胸が切なく呟く。身体が勝手に動き、身を離す伴侶の腕を引く。こんな子供染みたことを、これまでしたことがあっただろうか。陽子は唇を噛んで俯いた。
「どうした?」
穏やかな声が問う。陽子は顔を上げた。けれど、何と答えればよいのだろう。そう思うと、溢れそうな想いを言葉にすることはできなかった。
──もう少しだけ、ここにいて。
ただ、そう告げたいだけなのに。その一言が言えなくて、陽子は伴侶を見つめるばかり。伴侶は楽しげな笑みを浮かべて陽子を引き寄せる。そして、蕩けるように甘い口づけをくれた。
「朝が来るまでこうしていようか?」
唇を離した伴侶は、人の悪い顔を見せて戯言を言う。気紛れな戯れと分かっていた。だから、そんなわけにはいかないよ、と小さな声で応えを返した。
「それでは今宵はここまでだな」
あっさりと断じ、つれない伴侶は再び陽子から身を離す。瞳に涙が滲んだ。
お願い、そんなに冷たくしないで──。
それなのに、陽子の唇は、想いと裏腹な言葉を紡ぐ。
「──そうだね」
口ではそう言いながらも、陽子は伴侶の腕を掴んだ手を離すことはできなかった。
「──俺は、どうすればよいのだ?」
伴侶は苦笑を隠さない。それから、楽しげに陽子の顔を覗きこむ。陽子の気持ちなど、お見通しのくせに。
「──意地悪」
微かな声で呟くと、滲んだ涙が頬を伝った。情けなくて、悔しくて、陽子は目を伏せる。くすりと笑う声がして、逞しい腕がふわりと陽子を抱き寄せた。
「──それでは、月が見えなくなるまで、こうしていよう」
優しい笑みを浮かべる伴侶にしがみつき、陽子は小さく頷いた。隔てるものなく寄り添うと、触れあう肌の温もりが心地よい。それなのに、陽子の肩は少し震えていた。伴侶は己と陽子を上掛けで包み、ゆっくりと空を指差した。
そのまま、有明の細い月を、二人で見上げた。空が明るさを増していく。そして、月は、輝きを失い、暁の空に、少しずつ、融けていく。
あんなふうに、このひとと融けあいたい。いつまでも離れることなく傍にいたい。けれど──。
月が、空に呑まれて消えていく。微かな光さえ、とうとう見えなくなった。小さく息をつき、伴侶は切ない目を向ける。瞬きをすると、涙が零れた。温かな唇が、それをそっと拭う。目を閉じて、口づけを交わす。同じ想いを分かちあうために。
そして、陽子はそっと手を離す。伴侶は立ち上がり、身支度を整える。衣擦れの音を聞きながら、陽子もまた夜着を身に纏う。身支度を終えた伴侶が、陽子を上から下まで眺め、がっかりしたように呟いた。
「──見送りは裸身の方がよいな」
「──!」
陽子は思わず手近にあった靠枕を投げつけた。難なくそれを受けとめて、伴侶は呵呵大笑する。ひとしきり笑った後、伴侶は陽子の火照った頬に口づけて、軽く片手を挙げた。
「莫迦……!」
悔し紛れに小さく叫ぶ。ゆったりと去っていく伴侶は、少しだけ振り返り、片目を瞑った。ぷいと横を向くと、伴侶は低く笑い、臥室を出て行った。陽子は微笑んで伴侶の背を見送った。切ない涙は、既に乾いていた。
陽子が胸に抱く憂いさえも持ち去ってしまうひと。その大きさに包まれる幸せを感じながらも、少し癪に障るのは何故だろう。
朝食の席で再び顔を合わせるときに、笑みを見せるのは止めにしよう。陽子は子供染みた意趣返しを試みようと決めた。きっと、それすらも、面白がるのが我が伴侶。
そんなことを考えながら、陽子は衾褥に潜りこむ。そして、今度こそぐっすりと寝入ったのだった。
2008.05.30.
短編「融月」をお送りいたしました。
オマケ拍手「後朝の暁」を加筆修正した作品で、中編「約束」第2回文末〜第3回文頭の
陽子視点にあたります。
甘いものを書きたくて書いたのですが、朝に読み直すとかなり恥ずかしい作品でございます。
お察しいただけるでしょうか……(恥)。
それでも、お気に召していただけると嬉しいです。
2008.05.30. 速世未生 記