抱 擁
慶東国首都堯天。国主景王が住まう金波宮は雲をも貫く堯天山にある。夜陰に紛れ、景王陽子の堂室の露台に降り立つ騎獣があった。
大きな窓を開けて堂室に入ると、もう既に夜着に着替え、豊かな緋色の髪を背に下ろした伴侶が、ゆっくりと榻から立ち上がった。
何も言わずにその華奢な身体を抱きしめる。伴侶は麗しい顔に苦笑を浮かべ、延王尚隆を見上げた。にやりと笑うと尚隆はその朱唇に口づけを落とす。伴侶はその輝かしい瞳を閉じ、それに甘く応えた。
尚隆は伴侶の軽い身体を抱き上げ、臥室に向かう。牀にその身を横たえ、口づけを交わす。伴侶の細い指が尚隆の身体をなぞる。頬を、首筋を、肩を、二の腕を、ゆっくりと、優しく。そして尚隆の背に回された華奢な腕は、柔らかに、確かに尚隆を
抱く。尚隆を抱く陽子は、愛しむような笑みを浮かべていた。
この女はいつからこんな貌をするようになったのだろう。いつから涙を見せなくなったのだろ
う──。
女は抱くものだと思っていた。けれども、今、伴侶は尚隆を優しく抱きしめる。女に抱かれる日が来るとは思っても見なかった。女に抱かれてこんなに心が安らぐとは。
陽子を伴侶と決めてからも、尚隆はこの腕に他の女を抱くことがある。六太はそれを責めるが、尚隆は罪悪感を持ったことはなかった。蓬莱にいたときも、ほとんど顔を見たことがない妻と側室が何人かいたし、城下の女たちも屋形の若君を慕って寄ってきた。それが当たり前のことだと思っていた。
女は手練手管を弄する。艶然と男を焦らし、蠱惑し、取りこもうとする。そんな駆け引きもまた楽しいものだ。
──永く生きていれば、そんな刺激も欲しくなる。
知ってか知らずか、伴侶は尚隆を咎めたことがない。いつもその朱唇に微笑を湛え、尚隆を受け入れる。当たり前のように抱きしめるこの腕を、伴侶が拒んだことはなかった。尚隆はそれが当たり前でないことを知っている。
「──お前は何も問わぬな」
伴侶の耳許でそう囁いた。訊かれれば答えようと思っていた。俺を
抱く女はお前だけだ、と。しかし伴侶は何も言わずに微笑した。思わず見とれる艶麗な笑み。強かに美しく、娘は女の顔を見せる。
──それを淋しい、と感じてしまうのは、ただの我儘なのだろうか。それとも単なる感傷なのだろうか。
情の
強い女が残した微かな痕跡。気づいてはいたが、消さずにいようと思ったのは、ふとした悪戯心。悋気を見せたことのない伴侶の反応を試してみたかった。
目立たぬところに刻まれた微かな印。ふと目を留めた伴侶は深い笑みを刷き、その痕跡を愛おしげになぞる。まるで、それを残した女に語りかけるように。そして静かに遠くを見つめる。そこに、嫉妬、という感情が入る余地はなかった。
どこまでも清麗なわが伴侶。その澄みきった心も、真っ直ぐな眼差しも、出会った頃から変わらない。
そうやって、お前は全てを赦し、微笑んで受け入れるの
か──。
尚隆はしばし目を閉じた。そしていつもの問いを投げかける。
「──陽子」
「何ですか」
「──お前は何故俺を受け入れる?」
「あなたが私を求めるから」
伴侶もまた、即座にいつもの応えを返す。尚隆は深い溜息をつく。
「それだけ、か?」
「それだけ、です」
伴侶が見せる屈託のない笑み。そう、答えはいつも同じ。それでも訊かずにはいられない。伴侶がその美しい唇に愛の言葉を乗せることはない。
──分かっているはずなのに。
尚隆は苦笑とともに伴侶の朱唇に口づけを落とす。自らも口にしたことのない言葉を添えて。そしてその華奢な身体をきつく抱きしめる。
この腕に閉じこめてしまえたら。
そう思う。心を縛ることなどできはしない。この女は誰のものでもない。伴侶たる己のものにもならない。それでも、強く激しく、尚隆はこの女を求め続ける。昏い深淵に灯りを点す、稀有な女を。
この女を喪ったら、己はどうなるのだろう。生きて、いけるのだろうか。それとも、身の内に潜む昏い深淵に呑まれてしまうのだろうか。
答えの出ない問いを繰り返す。
腕の中の女が優しく微笑む。幼子を見つめる母の如く。
──私はここにいる。もう二度とあなたを置いて逝こうとしたりしない。
輝ける翠玉の瞳はそう語る。その慈愛溢れる眼差しに己を預ける。何もかも忘れて。
己の心の内にある暗闇を、この女もまた知っている。年経るごとに降り積もる昏い闇。それは王のみが知る孤独。そして、王ゆえの狂気。
何もかも整った国を壊したくなる衝動。何物にも代えがたい愛しい女を蹂躙したくなる欲望。そんな昏く厭わしいものを、この女だけが受けとめてくれる。そして、その柔らかな
腕に
抱かれ、ようやく安らかな眠りにつく。
「
尚隆──」
優しく呼ばう声に包まれて。
2005.10.27.