攻 防
昼の密かなわめきが、嘘のように静まりかえった深更の金波宮正寝。国主景王の私室に続く回廊を、音もなく移動する大きな影があった。
大きな影は、忍びやかに麗しき女王の堂室に向かう。そして、壮麗な扉の前に辿りついた大きな影の前に、立ちはだかる小さな影があった。
「──行かせません」
女王の私室の扉前を守り、決然と告げる凛とした女の声。大きな影は立ち止まり、笑いを含んだ問いかけをする。
「──ほう。それでは、そなたが今宵の夜伽をするとでもいうのか?」
「お戯れを仰る……」
「俺はそれでも構わぬぞ。そなたなら、相手にとって不足ない」
くつくつと笑う大きな影から、色めいた気配が滲み出た。ゆらりと大きな影が動く。微動だにしない女の二の腕を掴み、男は女に顔を近づけた。その深い色を湛える双眸を、紫紺の瞳は凛然とした光を放って受け止める。
「延王、あなたに陽子は渡せない!」
祥瓊は延王尚隆に鋭い視線を浴びせ、宣戦布告する。尚隆は動じることなく低い笑い声を立てた。
「──ほう。面白いことを言う。そなたは陽子《あれ》のよき理解者だと思っていたがな」
「──陽子を理解しているからこそ、でございます」
紫紺の瞳は惑うことなく親友の伴侶に向けられた。尚隆はますます面白そうに笑う。それから、祥瓊の瞳を覗き込み、皮肉な笑みを見せた。
「そなたに、何が分かるというのだ?」
「──陽子の、哀しみが」
怖じけることなく見つめ返す紫紺の瞳に、伴侶の翠玉の瞳が重なる。思わず微笑しつつも、尚隆は女王の親友に問いを重ねた。
「俺が、
陽子を哀しませている、と?」
「──あえて、是、と言わせていただきます」
拳を握りしめ、祥瓊は決然と告げる。自国の王の恩人であり、伴侶でもある隣国の王に、諫言する勇気を持つ娘。尚隆は目を細めて伴侶の友である祥瓊を見つめる。
「何故?」
「何故、とお訊きになるのですか?」
祥瓊は頬を紅潮させ、いきりたつ。尚隆はとうとう笑みを零した。掴んだ腕を引き、驚く祥瓊を抱き寄せる。そして頭に掌を置いて、その耳許で囁いた。
「そなたは、可愛いな」
「戯言も、度を越すと、笑えませんわ」
祥瓊は硬い声で言って尚隆を見上げる。それから、哀しげに続けた。
「──そんなふうに他の女性を口説かれるのですか? ご自分の伴侶を哀しませていることもお考えに入れずに……」
「──俺の軽口など、
陽子は承知しておるぞ」
尚隆はくつくつと笑う。祥瓊はその応えに身体を強張らせた。そして、低く囁いた。
「──陽子が承知していれば構わないと仰るのですか?」
「それは
陽子の問題で、そなたには関係なかろう?」
「そう、ですね……でも」
祥瓊はしばし目を伏せた。再び目を上げた祥瓊は、紅い唇に蠱惑的な笑みを浮かる。
「──きっと、後悔なさいますよ」
挑戦的にそう宣告し、祥瓊は尚隆に背を向ける。尚隆はその華奢な背を面白げに見守った。
「陽子……!」
小さな悲鳴を上げ、祥瓊は扉を叩く。扉はすぐに開けられ、中から血相を変えた女王が現れた。
「──どうした、祥瓊!」
「陽子、助けて! 延王が……」
「延王──?」
しがみつく祥瓊を抱きしめ、陽子は尚隆を見つめた。祥瓊は瞳を潤ませ、小さく身を震わせる。その肩を気遣わしげに叩き、陽子は尚隆に鋭い視線を浴びせた。
「──祥瓊に、何をしたのです?」
「何を、と言われてもな」
迫真の演技を見せる祥瓊と、それを疑うことない純粋な女王を見比べ、尚隆は嘆息した。陽子はその応えが気に入らなかったらしく、翠の瞳をかっと燃え上がらせた。
「祥瓊に何かしたら、たとえあなたでも許さない」
「たいそう麗しき友情だな」
「茶化さないでください!」
女王は友を庇い、己の伴侶を睨めつける。尚隆は呆れたように嘆息し、軽く両手を広げた。
「俺が、何をしたと思うのだ?」
「何って……」
陽子は困った顔をして祥瓊に視線を落とした。そして、小さな声で訊ねる。
「祥瓊……何をされたの……?」
「──」
「──祥瓊」
祥瓊は何も言わずに肩を震わせる。そんな祥瓊の背を摩り、陽子は再び尚隆を睨む。
「──延王」
「俺は何もせぬよ」
尚隆は苦笑を浮かべて肩を竦めた。そして、笑い含みに声をかける。
「祥瓊、もうよい。──この勝負、俺の負けなのだろう?」
陽子は目を見張る。腕の中の祥瓊の肩が大きく震え、次の瞬間、小さく吹き出した。陽子は困惑気味に訊ねる。
「祥瓊? いったい、何?」
「──ごめんね、陽子。大好きよ……」
陽子をぎゅっと抱きしめ、祥瓊は泣きそうに笑う。尚隆はそんな祥瓊に苦笑を送り、片手を挙げた。おやすみ、と言って踵を返す尚隆を、呼び止めるふたつの声。
「延王──!」
同時に言って、陽子と祥瓊は顔を見合わせた。困惑する陽子を見て、祥瓊はくすりと笑う。それから、祥瓊は友人の伴侶の前に、再び立ち塞がった。
「──言い訳くらい、なさってあげてください」
少し潤んだ瞳で挑戦的に告げる祥瓊に、尚隆は微笑する。それから、人の悪い笑みを見せて祥瓊を抱き寄せ、頬に口づけた。
「そなたは、やはり愛らしい」
「──!」
「──
尚隆!」
再び硬直して絶句する祥瓊と、目を見開いて咎める声を上げる伴侶。尚隆は、二人の娘を見比べてほくそえむ。
「──言い訳をしてやるから、その前に祥瓊を送ってこい」
尚隆は片目を瞑って伴侶を促す。陽子はふう、と長く息をついて、未だ固まっている祥瓊の肩を抱いた。それから、尚隆に鋭い視線を向ける。
「──後で、じっくり聞かせてもらいますからね」
捨て科白を残して歩き始めた伴侶とその友が見えなくなるまで、尚隆はその場に佇む。二人が回廊を曲がったことを確認し、尚隆は笑みを湛え、伴侶の私室の扉を開けた。
2006.12.20.