憧 憬
「──陽子、お行儀悪いわよ」
「へ?」
榻に胡坐を掻き、お茶菓子をぱくつく陽子に、祥瓊は溜息をついた。陽子はお茶菓子を口にくわえながら首を傾げる。祥瓊はげんなりと肩を落とす。
いくら着ているものが袍だといっても、胡坐はないだろう。これが、慶東国国主景王の実態。紅の光を纏う、鮮烈な女王──。そう称えられる景王陽子のこの姿を見たら、何人の男が卒倒することか。
かの方はこの姿をご存じなのだろうか?
──祥瓊はふと不安になる。陽子の伴侶、稀代の名君と名高い雁州国国主延王尚隆は、どう思うだろう? 祥瓊は恐る恐る陽子に訊ねる。
「まさか……と思うけど……あの方の前でそんな恰好、していないわよね?」
「うん。でも、あのひとは、きっと、『お前は面白い女だ』と言って笑うだけじゃないかな?」
「──あの方の前でも、そんな感じなの……?」
信じられない──。
祥瓊は激しく首を振る。この子は、ほんとうに、いつもこう。伴侶がいるとは思えない、この色気のなさ。祥瓊は再びげんなりと肩を落とした。
景王陽子と隣国の国主延王尚隆の恋はまだ公にされていない。ごく小数の側近のみが知る秘密である
──慶は、女王の恋を、禁忌としているから。
公にできぬ伴侶に会いにふらりと現れる、后妃を持たぬ延王。偉丈夫で気取りのない隣国の王は、女官たちの「憧れの君」なのだ。延王が訪れているときに、掌客殿の当番になることを熱望する女官がいかに多いことか。陽子はそれを知っているのだろうか。危機感を持ったりしないのだろうか。
「へえ、知らなかったな。あのひとは、そんなに人気者なのか」
「そんなに暢気に構えていていいの?」
面白そうに笑う陽子に、祥瓊は呆れたように問いかける。一夜のお相手に、と望む女官も多いのに。それとも陽子にとっては、女官など物の数にも入っていないのだろうか。いや、陽子がそんなふうに人を見る者ではないと、祥瓊はよく知っている。
「うーん、さすがに金波宮の女官に手を出したりはしないと思うよ。無論、玄英宮でもね」
「はあ?」
さらりと口に出された陽子の応えに、祥瓊は思わず目を見張る。その意味が分からぬほど鈍くはない。
「──何を知ってるの? まさか……あの方は……」
「妓楼に行ってるみたいだよ」
顔色を変えた祥瓊とは対照的に、陽子は何でもなさそうに軽く答えた。祥瓊は言葉に詰まった。
「……王宮じゃなきゃ、いいって言うの?」
「いいわけじゃないけど……止めようがないだろう?」
陽子はふわりと笑う。なんとも清麗な笑みであった。祥瓊は思わず見とれて絶句した。色気はないが、なんと美しい笑みだろう。
「平気、なの?」
「何が?」
祥瓊は胸に浮かぶ疑問を問わずにはいられなかった。陽子は不思議そうに問い返す。祥瓊は少し口籠った。
「──あの方が、他の
女といても……」
「平気、というか……。私があのひとを好きなことと、あのひとが他の
女を抱くことは、関係がないからね」
「──関係、ない、の……?」
「うん」
「──」
祥瓊は、少なからず衝撃を受けた。陽子は、己の伴侶のよからぬ素行を知っているどころか、関係ないと言い切った。その真意が分からない。祥瓊は躊躇いながらも重ねて問うた。
「──それって、許してる、っていうこと……?」
「ええと……巧く言えないんだけど……。許すとか許さないとかの問題じゃ、ないと思うんだ」
陽子は少し眉根を寄せ、小首を傾げる。相応しい言葉を探しているようだった。それから、澄んだ翠玉の瞳を真っ直ぐに祥瓊に向ける。
「あのひとは、どこで何をしようが、あのひとなんだ。それに、あのひとの行動を妨げられる者なんかいない」
「だからって……」
「祥瓊、分かるだろう、五百何十年も王さま業をやってるひとなんだよ?」
言い募る祥瓊の言を遮り、陽子は諭すように言った。そして、膝を抱えて微笑した。祥瓊は黙して考える。確かに延王は奔放だ。気儘に現れ、いきなり陽子を連れ出すことも稀ではない。被害を蒙る宰輔景麒は、隣国の放埓な王、と言って憚らない。
「私は、あのひとを縛るつもりはないよ。まあ、私が言ったって聞くひとでもないけれど」
「──諦めてるの?」
思わず漏らした祥瓊の言葉に、陽子は軽く首を振った。抱えた膝に頬杖をつき、幸せそうな笑みを浮かべる。
「──吹き渡る風を捕まえることはできっこないよ。ひとところにいたら、風は風でなくなってしまう」
「──もう、戻ってこないかもしれない、と……思うことは、ないの──?」
泣きそうに顔を歪め、祥瓊は問いかける。意地悪に、聞こえるだろうか。それでも訊かずにはいられない。そんな祥瓊の気持ちを知ってか知らずか、陽子は優しく微笑む。
「ない、と言ったら、嘘になるかな。でも、いいんだ、それでも。あのひとが、幸せに、生きていてくれれば」
「──」
「自由な風に、憧れてるよ、いつも」
言って陽子は夢見るように遠くを見つめる。祥瓊は、何も言えなくなってしまった。伴侶への想いを語る陽子は、艶増して美しい。
「──私にとって、ひとを好きになるって、理屈じゃないんだ。そのひとが何をしようと、誰といようと、好きな気持ちは止められない。あのひとが、あのひとだから、好きなのかもしれない……」
陽子は静かにそう語り、はにかんだ笑みを見せた。祥瓊は声なく陽子を見つめ返す。色気がない、子供っぽいと思っていた陽子が、そんな想いを抱いていたとは。それは、大人の女の包容力だと、祥瓊には思えた。
「──あの方が何をしても、陽子の気持ちは、変わらないのね」
「うん。私はあのひとが好きで、あのひとは私を求めている。それは、これからも、きっと変わらないと思う」
あのひとは私の伴侶だからね、と陽子は屈託ない笑みを見せた。その笑みには少しの翳りもない。それが却って祥瓊の胸を締めつけた。
揺るぎない想いを持つまで、どのくらい涙を零したのだろう。
陽子は、決して人前で泣いたりしない。それは一国の女王としては、当たり前のことなのかもしれない。けれども、人として、女としての陽子は──?
祥瓊は思わず陽子の肩を抱きしめた。もう涙を堪えることができなかった。堰を切ったように、涙が溢れて止まらなかった。
「──祥瓊? どうしたの? 祥瓊──?」
陽子は祥瓊の涙に狼狽えていた。祥瓊は激しく首を振る。何も言えず、ただ、陽子にしがみついて涙を零し続けた。泣きたいのは、祥瓊なのだろうか、それとも──?
陽子の代わりに泣くなんて、おこがましい考えだ。そんなことは分かっている。それでも──。
かの方を責めない陽子が哀しかった。何もしてあげられない己が悲しかった。そして、全てを受け入れて微笑む陽子が
愛しかった。
言葉にならない涙は、ただただ溢れて流れるのみだった。困惑した陽子は、それでも黙って祥瓊を抱きしめてくれた。
「──祥瓊、私が今、どんなに嬉しいか、分かる?」
「──え?」
やがて祥瓊の背をさすっていた陽子が静かに問うた。祥瓊は潤んだ瞳を上げる。陽子は微笑んでいた。
「祥瓊がいてくれてよかった。──私のために泣いてくれる友達がいて、ほんとうによかった」
「──陽子」
感謝を告げて笑みをほころばす陽子は麗しかった。祥瓊はゆっくりと笑みを浮かべる。
──私にも、できることがある。
そう思わせてくれる陽子の謝辞が嬉しかった。もしかして。かの方も、こんなふうに、陽子に癒されているのだろうか。
かの方と一緒にいる陽子は、いつも幸せそうだ。そして、かの方は優しい眼差しを陽子に向ける。公にできない恋を育む二人を、祥瓊は見つめている。
陽子を見守り続けよう。毅然と前を見つめる女王が、ふと振り向いたときには、明るい笑みを送ろう。今はそれしかできないけれど。いつか、きっと。
「それにね」
陽子は悪戯っぽい笑みを見せる。それから、祥瓊の耳に口を寄せると、小さく囁いた。
「──友達と、恋の話ができるなんて、思わなかったよ」
そう言われて、祥瓊は大きく目を見開いた。そして、もう一度、陽子をぎゅっと抱きしめ、花のような笑みを見せた。
「──私でよければ、いつでも聞いてあげるわ」
陽子は少し頬を染め、恥ずかしそうに頷いた。少女めいたその仕草に、祥瓊は笑みを零す。そして、陽子の耳に囁き返した。友達だからね、と。
2006.07.08.
「包容」の境地に達している陽子主上と祥瓊の恋愛談義でございます。
御題其の二十六「女史の深い溜息」から、こんなお話になってしまうとは……。
──でも、こんなお話だったのです。かなり難産しました。初稿はなんと今年の1月初めでした。
そのうち、尚隆の「よくない素行」を知った陽子のお話なんかも書いてみたいものです。
(でも、それ、いったい、いつ?) ──気長にお待ちくださいませ。
尚隆のよくない素行をしった陽子のお話は連作「誘惑」@夜話(本館)として書いております。
ご興味ございましたらご覧くださいませ。(注意書きございます。2008.09.28.追記)
2006.07.09. 速世未生 記