会 遇
* * * 1 * * *
「堯天へ行くぞ」
慶東国を公式訪問している雁州国の王は、そう言い放ってにやりと笑んだ。相変わらずの無茶な要求に、朝議を終え、急ぎの仕事を片付けて賓客の許に戻った景王陽子は深々と溜息をつく。これは、いつぞやの意趣返しなのだろうか。
「延王……」
「景麒は了承しておるぞ」
陽子は苦情を言い終えることができなかった。揺るぎない口調で陽子の言を遮って、賓客は破顔する。
「今のお前は俺をもてなすのが仕事だろう」
「堯天で何をする気です?」
先手を打たれ、陽子は儚い抵抗を試みる。もちろん答えが返ってくるわけはない。訪問時の正装とは打って変わって簡素な身なりの延王尚隆は、早く支度をしてこい、と陽子を促すのみだ。押し切られた陽子は、向かっ腹を抱えて自室に戻った。
己も簡素な袍に着替えて、陽子は賓客の隣に立つ。先日、襦裙を着ろ、と迫った伴侶は物言いたげだったが、それを無視して陽子は隠形している班渠を呼び出した。そして二人は王都堯天へと降りたのだった。
「どうやって景麒を説得したのです?」
「今回ばかりは景麒が俺に逆らうことなどない」
そうだろう、と返されて、陽子は頬を染めて俯いた。延王尚隆の公式訪問の理由を知らなかったのは、景王陽子ただ一人。禁門から尚隆を蹴り出して、公式訪問以外では会わない、と宣したのは陽子だ。尚隆は律儀に日程を調整するところから始め、正装して現れた。そして、大袞を着せられて不機嫌極まりなかった陽子に求婚したのだ。
慶は女王の恋を忌む。
だから、陽子の伴侶が隣国の王と知る者は一握りの側近のみだった。ずっと秘められていた恋をそろそろ公にしよう、と伴侶に提案されても、陽子は頑なに拒んだ。臣に、民に謗られるのが怖かった。それなのに。
驚き戸惑う陽子に、臣は優しかった。主上は人としての幸せを望んでも構わない、と冢宰浩瀚は笑った。そして、諸官は皆その言葉に頷いたのだ。秘めていた恋を公に認められて、景王陽子は初めて臣下の前で涙を零したのだった。
延王尚隆の要求を呑んで御膳立てをしたのは冢宰浩瀚と宰輔景麒、臣が心を合わせて粛々と準備を進めていた。陽子だけが何も知らなかったのだが、文句は言えなかった。浩瀚は律儀に報告していたのに、顧みなかったのは陽子自身なのだから。
思い出したか、と繋いだ手を強く引かれ、陽子は伴侶の胸に倒れ込む。見上げた貌は人の悪い笑みを浮かべていた。応えを拒む陽子を連れて、伴侶はそのまま賑やかな広途を漫ろ歩く。そして、低く囁いた。
「――これが、お前が手放そうとしたものだ」
陽子ははっと息を呑む。反射的に眼をやると、伴侶は堯天の街を見据えていた。登極時より格段に整備された広途、軒を連ねる華やかな店舗、行き交う馬車や徒歩の人々。荒廃から回復した繁栄を謳歌している民人を、景王陽子は見捨てようとしたのだ。そう思うと胸が痛かった。荒んだ慶を初めて見たときよりも、ずっと。
街から伴侶に眼を戻す。見捨てる、ではなく、手放す、と言ってくれたひと。国を捨てて逝こうとした王を責める口調ではない。このひとは、玉座の重さを識るひと。陽子は淡く笑んだ。そんなとき。
「こんなところで会うかなあ」
聞き覚えのある楽しげな声がした。振り向いた陽子は、身なりの良い若者を見て絶句する。伴侶は嫌そうに言葉を返した。
「それはこちらの科白だ」
聞いて、奏南国第二太子卓郎君利広は、爽やかに笑う。
「ここで会ったのも何かの縁だよ。夕餉でも一緒にどう?」
断るわけにはいかぬだろうな、と伴侶は苦笑し、無論だよ、と太子は返す。旧知の二人による遠慮のない会話が交わされる間も、陽子は動けずにいた。
どうして、今、このひとが、ここに。
風来坊の太子は、故あって旅をしているはずだ。卓郎君利広を呼ぶ理由が、堯天にはあるのだろうか。口に出せぬその思いは、陽子を緊張させた。
やがて話は纏まり、利広はおもむろに歩き出す。苦笑を浮かべた伴侶は、陽子の手を引いたまま、利広の後ろをついていく。陽子は不安を隠せぬままに二人に従ったのだった。
* * * 2 * * *
旅慣れた風来坊は、適度に賑わう飯堂の前で足を止めた。一度振り返って後に続く二人を促すと、ゆったりと中へ入っていく。空いた席に腰を落ち着け、店員を呼び寄せる様も手馴れていて、陽子は密かに感嘆した。注文を終えた利広は、同胞に眼を向ける。太子の問いかけに、伴侶が素直に応えを返すことはない。軽妙ながら強かな遣り取りに、陽子はただ驚いていた。狐と狸の化かし合いのような二人の会話は、酒肴が来たことにより中断される。利広は酒を満たした杯を上げた。
「じゃあ、再会を祝して乾杯!」
「目出度くはないがな。乾杯」
陽気な太子に、北国の王は揶揄しながらも杯を上げた。陽子も小さな声で唱和する。利広は陽子ににっこりと笑いかけ、世間話を始めた。
悠久の時を旅する風来坊たちの会話は、他愛ない話ですら珍しく楽しかった。二人とも博識で、慶主である陽子よりも堯天に詳しいが、不思議と気にならない。生きてきた歳月が違うのだ。それに、陽子は王宮を抜け出す王に臣がどれだけ手を焼いているか知っている。
次第に緊張が解れ、陽子は並べられた料理に舌鼓を打った。利広が選んだものはどれも美味しい。時折眼が合うと、太子はにっこりと笑んだ。この親しみやすさは初めて会った時から変わらない。陽子は己も打ち解けた笑みを返した。
「ところで、陽子は何を騎獣にしているの?」
何気ない問いに、陽子は顔を上げる。風来坊の太子は柔和な眼を向けていた。隣に坐す伴侶は飄々と酒杯を傾けている。どうやら警戒する必要はなさそうだ。
「吉量を使ったこともあるけど……」
陽子は少し考える。玄英宮にいたときは、吉量を借りて出陣した。けれど、金波宮に戻ってからは、陽子の傍にはいつも使令がいる。
「だいたい班渠かな」
「班渠?」
利広は不思議そうに首を傾げた。ああ、と陽子は笑みを浮かべる。適度に賑やかな飯堂、話を聞かれてはいないだろうが、多少声を落として種を明かした。
「班渠は使令だよ」
聞いて利広は納得したようだった。南の大国の王族である太子は、きっと麒麟や使令にも詳しいのだろう。陽子は話を続けた。
「班渠なら隠形できるから厩に預ける必要もないし、脚も速いし、退屈な時は話し相手になってくれるし。諫言もされるけどね」
そう言って笑うと、利広は微妙な貌をして黙した。足許からは、押し殺した笑声が聞こえる。こういう稚気に富んだ使令が班渠なのだ。無論、利広は動じなかった。
「――さすが。驚かないんだね」
陽子は素直に感嘆する。伴侶が隣で大きな肩を震わせていた。太子は顔を蹙めて同胞を睨めつける。そんな利広の肩を、伴侶は人の悪い笑みを浮かべながら叩いた。陽子だけがそんな言葉のない遣り取りを理解できない。困惑する陽子に、利広は苦笑を向け、尚隆はただ笑い続けるのだった。
「堯天は美味い店が多いね。国主の仁徳かな」
散々飲み食いした後、風来坊はそう言って爽やかに笑う。景王陽子は笑みを以てそれに応えた。ひとつ頷き、旅人は片手を挙げる。
「じゃあ、またいつか」
そう言って去っていく南国の風来坊を、陽子は見えなくなるまで見送った。卓郎君利広は、慶東国に何を見たのだろう。景王陽子をどう思ったのだろう。
「――確かめに来たのかな」
陽子は小さく呟いた。太子の放浪には意味がある。景王陽子は、己を捕えかけた暗闇を払ったばかりだった。此度も助力してくれた隣国の王は軽く問い返す。
「だとしたら?」
「――すごいね」
陽子は深々と溜息をつく。延王尚隆は笑声を上げた。陽子の肩に手を回して軽く叩きながら、隣国の王は感想を述べる。
「無駄に長く生きていない、ということだ。あれは化け物の部類に入る」
楽しそうなその声に、陽子は黙して頷く。延王尚隆は否定しなかった。南国の太子は、堯天を検分していたのだ。悠久の時を生きる王族には、王の転機が分かるのだろう。景王陽子は、正に岐路を誤るところだった。
肩を抱く手は大きく温かい。共に暮らすことができないことを嘆いてばかりいたが、このひとは肝心な時に必ず傍にいてくれる。そして、陽子を搦めとろうとした闇を払ってくれた。
稀代の名君は、陽子を伴侶に選んだ。このひとの選択に感謝しつつ、それに恥じない女でいたいと思う。そして、陽子はまた賑やかな堯天の街に眼を戻した。この街は、この国は、陽子を必要としている。それを思い出させてくれた伴侶が低く呟いた。お前には言われたくない、と聞こえたような気がする。陽子は首を傾げた。なんでもない、と言いつつ、伴侶は眩しい笑みを見せる。
「――お前は厄介な古狸を見事追い返した。誇っていい」
陽子は大きく眼を瞠る。風来坊の微妙な貌が胸を過った。爽やかな弁舌で翻弄してくる強かな太子を黙らせたのだ、と気づくと笑みが漏れた。
「お褒めに与り恐悦至極」
そう返すと、大きな手が陽子の肩を抱き寄せ、楽しげな笑い声が身を包んだ。ふたりはそのまま歩き出す。失われずに済んだ東の国の王都は、王たちの微行を優しく見守るのだった。
2015.12.05.
久々に連作「慶賀」に連なる作品を仕上げました。
お気づきかもしれませんが、「帰山で十題」其の三「こんなところで会うかなあ」及び
其の八「お前には言われたくない」の陽子視点でございます。
「慶賀」〜「昏闇」直後を想定しております。
祭では書きこめなかった部分を、今回陽子主上に語っていただきました。
お楽しみいただけると幸いでございます。
2015.12.06. 速世未生 記