枕 語
蜜月の夜はあっという間に過ぎ去る。今まで、胸が締めつけられる想いで迎えていた夜明け。しかし、今日から朝陽を二人で見ることができる。陽子は伴侶の顔を見つめ、満ち足りた笑みを浮かべる。
微笑を返す伴侶と甘い口づけを交わし、陽子はその腕の中で安らかな眠りについた。悪夢に脅かされることもなく。そう、女王の矜持も何もかも捨てて求めた男に拒絶される──そんな夢を、恐れることなく。
今、何かあったら、呆気なく弑されてしまうだろう。陽子は、そのくらい無防備に眠っていた。愛する伴侶の腕に抱かれて。
* * * * * *
ぐっすりと寝入っていた陽子は、不意に眠りから覚まされた。小さな痛みと肌をくすぐるものを感じ、ゆっくりと目を開ける。朦朧とする意識は、肌に感じる温かく柔らかなものを探した。朝の光の中、その正体を見出した陽子は、目を見張り、飛び起きようとした。
陽子の身体に覆いかぶさる伴侶は、人の悪い笑みを浮かべ、それを阻む。そして、軽く陽子の手首を掴み、露になった胸許に所有印を刻む。肌に残る幾つもの鮮やかな痕に、陽子は羞恥し頬を染めた。
「──尚隆、痛いよ」
「祝言の夜くらい、俺の我儘を許せ」
そんな陽子の抗議を、伴侶はにやりと笑って一蹴する。いつも我儘じゃないか、と陽子は抗った。伴侶は全く頓着せず、陽子の肌に印を刻んでいく。陽子は小さく喘ぎながら、か細い声で言い募った。
「もう、朝だし──恥ずかしいよ……」
「よいではないか。お前が俺と共寝をしていることなど、周知の事実なのだからな」
「だから余計嫌なんだ……」
こんな痕を鈴や祥瓊に見られたら、冷やかされるに決まっている。そうでなくても興味津々にあれこれ聞きたがる二人なのだから。
陽子は頬を朱に染め、顔を逸らした。それが人の悪い伴侶の悪戯心を刺激するとも気づかずに。伴侶は無防備に曝された陽子の首筋を強く吸い上げた。
あ、と息を呑み、陽子は慌てて身動ぎする。こんなところに痕をつけられたら、服を着ても見えてしまう。しかし、伴侶に抱きすくめられ、逃げることは叶わなかった。
伴侶はそのまま陽子の肌に唇を這わせる。官能を呼び覚まそうとするその愛撫に、身体は呆気なく応える。そんな己の身を恨めしく思いながら、陽子は羞恥に涙を滲ませる。それでも、優しい笑みを見せる伴侶の情熱に、陽子はその身を任せた。
* * * * * *
心地よい浮遊感にたゆたいながら、茫と空を見やる。陽子を求める伴侶の大きな手は、お前は俺のもの、と告げていた。ぼんやりと想いを馳せる。そういえば、このひとが陽子の身体に所有印を刻んだことは、数えるほどだった。
気儘に陽子を振り回す伴侶だが、陽子が明らかに困ることはしなかった。秘密の恋が暴かれるような危険なことは、したことがなかった。
そして──できない約束は、決して口にしない。だからこそ、その唇が語る言葉には重みがあった。
(──泣くほど、辛いか?)
素直に頷きたくなるくらい、優しい声だった。流れる涙を恥じて、頑なに背を向け続けた。そして、深い溜息をついた伴侶に、口にしてはいけない言葉を言わせてしまった。
(──楽にしてやろうか? 俺が、この手で)
瞠目し、思わず振り返った。潤んだ瞳に映る、伴侶の昏い微笑。
共に堕ちよう、そう誘う、暗闇の甘い囁き──。
陽子は目眩を堪えた。嬉しい、と──思う自分がいる。このひとは、躊躇うことなく剣を振るい、陽子の首を落とすだろう。そして、笑みを湛えたまま、己をも──。
今でも容易にその場を想像できる。何度も何度も夢に見た、その甘美な誘惑。その度に、陽子の背に戦慄が走る。
身体を抱く腕の主を、ゆっくりと見上げた。微笑を浮かべ、見下ろす瞳。柔らかな沈黙を破るのは、少し勇気が必要だった。
「──何故、道に悖ることを……言ったの……?」
陽子は躊躇いがちに問うた。尚隆は笑いを含んだ応えを返す。
「理由が、必要か?」
「──ずるいね。訊いているのは、私なのに……」
陽子は小さく呟いた。そう……こんなふうに訊いても、まともに答えが返ってきたことなどない。分かっていたはずなのに。しかし、今日は違った。陽子を抱き寄せ、尚隆は揺るぎなく告げた。
「あれが、俺の本音だ」
「本気で言っているの?」
陽子は鋭く言い返し、尚隆の瞳を睨めつける。──いや、分かっている。あのとき、このひとは、本気で言っていた。そうでなければ口に出すことのできない、重すぎる言葉。だからこそ、陽子は、それを否定したのだから。尚隆は笑みを湛え、続けて言った。
「無論、本気だとも。俺を選んだときから、お前は雁をも背負っているのだぞ。心しておけよ」
「……慶だけでも重いのに、もっと重いものを背負わせないで……」
伴侶のいつもの軽口に、陽子は深い溜息を零し、苦笑した。重すぎる本音を、何度も繰り返すひとではない。しかし、尚隆は陽子の頭を撫で、耳許で囁いた。
「──お前は、俺がお前に何も望まぬ、と言ったが……」
何を言うつもりだろう。陽子は尚隆を見上げる。尚隆は優しく微笑み、おもむろに続けた。
「お前はお前のままでよい。寧ろ、そのままでいて欲しい。俺が望むのは、それだけだ。 ただ──俺の前では、無理をするな」
「──うん……」
──憶えていてくれた。ずっと、訊くことができずにいたことを。答えを聞くのが怖かったことを──。
素直に頷くと、再び涙が零れた。深い色を湛えた双眸。その裏に暗闇を隠しながら、尚隆の瞳は揺らぐことがない。己が己であることを、己が王であることを、常に忘れないひと。
暗闇に囚われそうになった陽子を、このひとがこの世に引き止めてくれた。陽子は忘れないだろう。このひとに、国などどうでもいい、と言わせたことを。そして──覿面の罪に縛られる王の身であるこのひとに、この手で楽にしてやる、と言わせたことを。
「愛している」と、決して言わないひと。けれども、このひとは、熱く、烈しく、昏い想いを胸に抱いている。その想いは──きっと、愛なのだろう。
想いを籠めて潤んだ目で見つめると、尚隆は微笑を返した。陽子の零れた涙を己の唇でそっと拭う。陽子は瞳を閉じた。そしてまた、甘い口づけを交わす。互いに抱く昏い闇に、灯りを点すために。
あなたを愛してる。あなたが抱く光も闇も、受けとめたい──。
切ない想いを伝えるために。
2006.09.18.
短編「枕語」をお送りいたしました。
本来であれば「枕語り」と送り仮名がつくのですが、まあいいことにしました。
夏が終わったというのに、まだ……。また、暑苦しいものを書いてしまいました……。
9月に入ってから、リクエスト物を中心に、色々なものを書き散らしておりました。
長編「黄昏」の続きを書いているときが最も多かったのですが。
その中で地味に書いていたこのお話が仕上がりました。
「蜜月」の続編で、「昏闇」最終回の陽子視点にあたります。
陽子主上に、「愛されている」自信を、持っていただけた、と私は信じたいです。
(でないと、さすがに尚隆が気の毒……)
お気に召していただけると嬉しいです。
2006.09.18. 速世未生 記