蜜 月
「──で、その新しい宿舎とやらはどこにあるんだ?」
くるくるとうねる緋色の髪を鈴に梳ってもらいながら、陽子は無邪気に訊ねる。その途端、櫛を持つ鈴の手がぴたりと止まり、わなわなと震えた。豪奢な組紐を手に持つ祥瓊も、蟀谷に青筋を立てた。傍に控えた女官の顔が引きつった。
誰も口を開かない。鈴は黙々と陽子の髪を梳かし、祥瓊は口を引き結ぶ。失言に気づいた陽子は、そっと口許を押さえた。これ以上、友人たちを怒らせては後が怖い。
陽子の髪を緩く纏めた鈴は、無言のまま祥瓊から組紐を受け取る。そして確かな手つきで、つややかな紅の髪を文句なく美しく結びあげた。
鈴と祥瓊は陽子の前に回り、髪型を確認する。それから二人揃って深い溜息をついた。
伴侶である隣国の王と並んだ正装の女王は、溜息が漏れるほど美しかった。それなのに、その慶賀を祝う宴の後、麗しい女王は即行で大袞を脱いでしまったのだ。二人は怖い目つきで陽子を睨めつけた。陽子は肩を竦めて頭を下げる。
「──悪かった。でも、ほんとに知らないんだ。教えてくれないか?」
「──知らない! そんな恰好の花嫁を延王の許へご案内するなんて……。私には、到底できないわ!」
「そうよ……あんなに頑張ったのに、全部台無しにしてくれちゃって。勝手に行ったらいいんだわ!」
殊勝な顔で謝る陽子を残し、二人は憤懣やるかたないといった風情で出ていってしまった。陽子は小さく溜息をつき、その場に残る女官に目をやる。女官は恭しく拱手すると、先に立って歩き始めた。
* * * * * *
慶東国国主景王の住まう金波宮、その正寝の一角にある景王の私室にも程近い瀟洒な宮。そこが景王陽子の伴侶となった延王尚隆のために用意された宿舎だった。扉の前で立ち止まり、女官はまた頭を下げる。陽子は軽く頷き、礼を言って女官を下がらせた。
知らぬ間に設えられた伴侶の宿舎に初めて足を踏み入れた陽子は目を見開く。殺風景な己の自室とは趣の違う堂室を、珍しげに陽子は見回した。
祥瓊と鈴が殺気立つわけだな、と陽子は思う。景王陽子の側近として延王をもてなすことも多い二人が指図したのだろう。趣味がよい中にも、武断の王たる延王の人柄を心得た設えであった。陽子は感心したように大きく頷いた。
「なかなかいい堂室じゃないか」
「──大袞のまま寄越せと言っておいたのに」
榻で寛いでいた尚隆は、現れた伴侶を見て渋い顔をした。酒盃を卓子に置き、陽子を上から下まで眺め、小さく息をつく。
「あのまま一緒に連れてくるべきだったな……。せめて今夜くらい、襦裙を着てこい」
「自分だって、もうすっかり寛いでいるくせに。──あなたの我儘ばかり通るわけじゃないんだよ」
いつもの如く長袍を纏い、複雑に結い上げていた髪もすっかり元通り。せめてこれくらい、と鈴が豪奢な組紐で緩く結んだ髪を、陽子は軽くかきあげた。そして露骨に嫌そうな顔を見せる尚隆に、悪戯っぽい笑みを送る。そんな伴侶を抱き寄せて軽く口づけると、尚隆は残念そうに呟いた。
「大袞を脱がせてみたかったのに」
「そんなことばっかり言って。あれは正装なんだよ。あなたのように乱暴に扱ったら破れてしまう」
子供みたいだ、と揶揄し、陽子は軽やかに笑い声を立てた。それに、と陽子は付け加えてまた笑みをほころばす。
「──今回は、尚隆にやられっぱなしだから。これくらいの意地悪は許されると思うな」
「お前こそ、俺を蹴り出したくせに、よく言う」
「蹴られるようなことをするからだろう」
「いつもしていることではないか」
尚隆は意地の悪い顔をして陽子を見下ろす。禁門近くの回廊にて尚隆がしたことを思い出し、陽子は顔を火照らせる。陽子を黙らせた尚隆は、にやりと笑って畳みかけた。
「蹴り出されるほどのことではなかろう?」
「──尚隆」
もう一度蹴り出されたいか、と景王陽子は物騒な眼を向けた。延王尚隆は不敵な笑みを見せる。
「──あいにく、今宵、俺を追い出せる者は誰もいない」
「延王尚隆、勘違いされてないか? ここがどこなのか」
武断の女王は不快げに柳眉を顰める。隣国の王は、したりとばかりに人の悪い笑みを返す。
「勿論、ここは慶だ。そして俺は、国主景王陽子の伴侶。──違うか?」
「──意地の悪いことを言う」
本日新たについた称号を早速使うなんて、と陽子は頬を染めて俯く。尚隆はくつくつと笑って羞じらう伴侶を抱き寄せ、その顔を覗きこむ。
「意地が悪いと言うか? お前を伴侶だと公言した俺のことを」
「あなたは、ずるい……」
陽子は羞じらう様を見せまいと、尚隆の肩に顔を埋めた。尚隆は楽しげに笑い、陽子の髪を撫でた。
「俺はずるいか。──お前は、相変わらず可愛いな」
「それ、褒めてない。莫迦だと言われてる気がする……」
「褒めているのだがな。褒め甲斐のない女だ」
「──からかっているだけじゃないか、いつも……」
「──捻くれた取り方をする。昔から変わらないな」
尚隆は苦笑気味にそう言い、そっと陽子の頬に触れた。思わず顔を上げた陽子の瞳を、尚隆はじっと見つめる。今までの軽口とは打って変わって、優しく懐かしげな色を浮かべるその眼に、陽子は少し戸惑った。
「尚隆?」
「陽子……」
不意に厚い胸にきつく引き寄せられた。陽子を抱き潰してしまいそうなその強い腕。陽子は驚き、小さく喘いだ。押し殺した低い声が降ってくる。
「──お前が、俺の運命だ」
「──」
「俺は……お前とともに在る。──今までも……これからも」
陽子を抱きしめる逞しい腕は少し震えていた。軽口ばかり叩く唇よりもずっと雄弁に語る大きな手。
俺は、お前を、喪いたくない──。
そんな声なき声が聞こえたような気がした。
「尚隆……」
「──独りで煮詰まるな」
伴侶の低い叱責に、ふわりと微笑んだ己の半身が被った。慶東国では長い間女王の恋愛は禁忌だった。──あの景麒が、あっさりと許すはずはない。怜悧な冢宰浩瀚が、延王尚隆の正式訪問の理由を、申し分ないと判断するわけがない。
瞳に涙が滲んだ。今、やっと気づいた。独りで思い悩み、光に背を向けていた。王を誘う昏い闇に、知らぬ間に吸い寄せられていた。このひとを、置いて逝こうとしていたのだ。もう、二度としないと誓っていたはずなのに──。
「あのときのお前は、朝陽に融け去ってしまいそうだった……」
あの日の夜明け、掌客殿には戻らぬ、とこのひとは言った。もう俺を伴侶と明かしてもよいだろう、と。揺るぎのないその笑みを、陽子は頭から否定した。──いつもの意地悪だと思ったのだ。気紛れに陽子を困らせようとしているだけだ、と。
低く掠れた声で囁くひとを、陽子は抱きしめた。このひとの手を離そうとしていた己を恥じて。戦うことなく、一番大切なものを諦めようとしていた己を恥じて。
「──ごめんなさい」
そう囁くと、驚くほど素直に涙が零れた。ずっと、泣きたかった。もうあの頃の小娘ではない。だから、ずっと我慢していた。武断の女王が涙など、と己を縛り続けていた。
悪夢を見たあの日も、思わず滲んだ涙を恥じてこのひとから逃げ出した。慰める優しい腕を拒んだ。未だ小娘のように悪夢にうなされる己を認めたくなくて。
──このひとが陽子の涙を拒んだことなど、一度もないというのに。
潤んだ瞳を向けると、尚隆は愛しむような笑みを見せた。そして陽子の涙をそっとその唇で拭う。昔と同じ、優しいその仕草。懐かしさに笑みが零れた。そして唇が重なった。見つめあい、笑みを浮かべ、また口づけを交わす。やがて、尚隆は悪戯っぽい笑みを見せて言った。
「何も言ってはくれぬのか?」
「──え?」
「──鈍いにも程がある……」
潤んだ目を見開く陽子に、尚隆は深い溜息をつく。陽子の頬がゆっくりと朱に染まる。お前が俺の運命だ、と、このひとは言った。それは、初めて想いを交わしたあの夜に言われた言葉。
言葉を惜しむ気はなかった。けれど、このひとの瞳を見つめると、陽子はいつも言葉を失ってしまう。ただ、それだけのこと、なのに。──もしかして、決して愛の言葉を口にしないこのひとも、同じなのだろうか。
愛おしさとともに、また涙が込みあげた。この想いを、どう伝えればよいのだろう。言葉にすることは難しい。深い色を湛える双眸を、覗きこんだ。想いを込めて、言葉を手繰り寄せる。陽子が言葉を紡ぐまで、このひとは待ってくれるだろう。
あなたを愛してる。もう、あなたから逃げたりしない。これからは、朝が来ても離れなくてもいい。ずっと、抱きしめていて──。
想いは心から今にも溢れそうだった。ゆっくりと、震える唇を動かして。
「──朝陽に融けないように、見張っていて……」
「無論そうしよう、これからずっと」
微笑む尚隆と、再び甘い口づけを交わした。陽子をそっと抱き上げ、尚隆は臥室へ向かう。後朝の別れを思わずにすむ、初めての夜。蜜月の夜を、二人で過ごそう。そして、朝陽を二人で迎えよう。互いの温もりを感じあいながら。
2006.04.04.
「2万打」記念企画、「慶賀」後日譚其の二「蜜月」をお届けいたしました。
如何でしたでしょうか。
「黎明」が硬くて書いた「慶賀」。
そして、この「蜜月」も「黎明」の硬さに嫌気が差して書き始めたものです。
久しぶりに甘いものを書きました。少し照れが出て、微糖かも……。
「あの日」何があったのか、というお話は、いつか中篇として発表したいと思います。
気長にお待ちくださいませ。
「2万打」本当にありがとうございました。
2006.04.04. 速世未生 記