「連作慶賀」 「玄関」 

至 福

 高岫山を超えて雁州国に入ると、陽子はにわかに緊張してきた。慶では皆から祝福を受けることができたが、はたして雁ではどうなのだろう。
「──妙な心配をするのだな」
「だって……」
 緊張のわけを話すと、尚隆はいかにも可笑しそうに笑う。陽子は口籠り、俯いた。王が王を伴侶にするなど前例がないと言われ続けてきた。誰も祝福してくれないのだ、とずっと思っていたのだ。歓迎されていると聞かされても、にわかに信じられるものではなかった。
「──雁には紅の女王を厭う者などおらんよ」
 尚隆は優しく微笑んだ。伴侶の言葉を疑うわけではないけれど。それでも陽子はまだ不安を隠せなかった。

 やがて玄英宮の禁門に辿りついた。そこでは、延麒六太が飛び跳ねるようにして手を振っている。そして、大袈裟だな、と尚隆が舌打ちするほど、沢山の者が立っていた。
 延王尚隆と景王陽子が岩棚に降り立つと、出迎えの者たちが一斉に叩頭した。延麒六太までが景王陽子の前に跪く。陽子は思わず目を見張り、頬を紅潮させた。
「ようこそいらせられた、景女王。雁の者一同、此度の慶賀を心よりお喜び申し上げる」
「──ありがとう、延麒。不束者だけれど、末永くよろしく」
 珍しい延麒六太の正式な挨拶に、景王陽子は羞じらいつつもそう答えた。延王尚隆はその細い肩を抱き、笑顔で告げる。
「出迎えご苦労。──我が伴侶は長旅で疲れておる。早急に休ませてやってくれ」
「おう、とっくに準備はできてるぜ。案内してやる」
 ぴょんと立ち上がると、宰輔延麒自ら先頭に立って歩き出す。それがあまりに六太らしく、陽子はくすりと笑った。緊張が解れた紅の女王は艶増して麗しい。雁の官吏たちは、密かに感嘆の溜息をついたのだった。

「尚隆が、後宮を用意せよ、って言ったときの官吏たちの顔ときたら。やっとその気になったか、って落涙した奴もいて、ほんと面白かったぜ」
 六太は軽口を叩き、破顔する。陽気な六太のお喋りを聞きつつ歩くと、陽子の緊張もどこかへいってしまった。隣を歩く尚隆も、笑みを浮かべて陽子を見下ろしている。陽子は伴侶に柔らかな笑みを返した。
 やがて後宮に着いた。後ろからついてきていた下官が手早く茶の用意をし、恭しく頭を下げる。尚隆が軽く頷くと、下官は短い挨拶を残して下がっていった。
「じゃあ陽子、ゆっくり寛いでくれ。ここはお前の堂室だからな。尚隆、ちゃんと休ませてやれよ」
「ありがとう、六太くん」
「お前は一言多いぞ、六太」
 六太はにっこりと陽子を労う。陽子は心からの感謝を述べた。そして、意味深な視線を向ける六太に、尚隆は渋い顔を返した。

* * *    * * *

 榻に腰かけ、淹れてもらった茶を飲むと、陽子はふっと息をついた。尚隆が訝しげに陽子を見る。陽子は言い訳のように呟いた。
「──なんだか落ち着かないな」
「そうか?」
「うん……。いつも掌客殿にいたからね」
 そう言いながら照れた笑みを見せたのは、やはり緊張しているからかもしれない。このひとの伴侶として、玄英宮に──しかも後宮にいることが信じられない。ずっと秘密を分かち合ってきた延麒六太はともかく、雁の官吏の祝福が信じられない。
 そんなことを素直に打ち明けたら、きっとこのひとは笑うのだろう。いつも、己の心のままに振舞うこのひとは。けれど、陽子はそうではない。
 いつもこのひとを見上げてきた。いつもこの広い背を追いかけてきた。気紛れに会いに来てくれる伴侶を、待っているだけだった。帰国する後ろ姿を見送る度に、もう会えないかもしれないと思って悲しくなった。そんな切ない想いを、ずっと抱えていたのに。
 陽子を見つめる瞳は、限りなく優しい笑みを湛えている。陽子は胸を満たす幸せな想いを抱きしめ、心でそっと呟いた。

 ──あなたが好き。私を見上げないその目が好き。
 躊躇わずに触れるその手が好き。私の迷いを薙ぎ払うその腕が好き。
 身も心も温めるその胸が好き。私を呼ばうその声が好き。
 そして、他の誰にも見せられない涙を優しく拭う唇が好き。

 微笑を浮かべた尚隆が、不意に懐から小さな箱を取り出した。陽子は首を傾げ、螺鈿細工の美しい箱を見つめる。尚隆は自らその箱を開け、おもむろに差し出した。

「お前に贈り物だ」
「──え?」

 陽子は箱の中身を見て小さく声を上げた。そこに入っているのは、銀色に輝く美しい指輪。
 驚きに動けない陽子の左手を取り、尚隆はその指輪を薬指にはめた。陽子は頬を染めて左手を見やる。そして、ぴったりだな、と笑う尚隆を見上げた。
「これ──」
「蓬莱では、花嫁は祝言のときに指輪をはめるのだろう?」
 そう軽く答えて、尚隆は人の悪い笑みを見せる。どうして、と訊ねたのに、最後まで言わせてもらえなかった。

 どうして蓬莱の結婚式を知ってるの。
 どうして指のサイズを知っているの。
 そして──どうして、結婚指輪をくれたの? 

 訊きたいことは、沢山あるのに。

「もう、隠す必要もないからな」
「──ありがとう……」

 少し照れたように笑う尚隆に、しみじみと礼を述べると、瞳に涙が滲んだ。泣き顔を見せたくなくて、尚隆の首に腕を絡めた。そして、そっと口づけを贈った。

* * *    * * *

「襦裙を嫌がるくせに、装飾品は喜ぶのか?」
「それとこれは話が違うだろう。あちらでは、左手の薬指にはめる指輪は、特別なものなんだよ」
 にやりと笑みを浮かべて揶揄する尚隆に、陽子は憤然と抗議する。尚隆はくつくつと笑い、優しい口づけをくれた。
「──私、貰ってばかりだね。あなたになんにも返してあげられないよ……」
 溜息をついて尚隆を見上げた。いつも、して貰ってばかりいる。出会ってから、ずっとそうだった。玉座の重みを教えてくれたひと。そして、女の幸せをも教えてくれた。このひとに、いったい何をしてあげられるのだろう。そう思うと、また瞳に涙が滲む。

「お前からの贈り物は、もう受け取っている」

 愛しむような笑みを浮かべ、尚隆はそう言った。陽子は目を見張る。何かをあげた憶えなどないのに。首を傾げて目で問うても、尚隆は人の悪い笑みを見せるだけ。いつものことながら、陽子は困惑を隠せない。
 そのまま、厚い胸に抱き寄せられた。そして、甘い口づけを交わす。安らぎをくれる、ただひとつの故郷ともいえる我が伴侶。愛おしさが込みあげてくる。

 私を焦がすその熱が好き。私を照らすその光が好き。
 そして──私を求めるその闇が好き。

 見つめていたい。寄り添いたい。抱きしめたい。
 想いは瞳に宿る。口許に笑みが浮かぶ。

「──何を笑っているのだ?」
「──内緒」
「こら、内緒なぞ許さぬぞ」

 そうやって向きになるあなたも、やっぱり好き。
 甘い口づけをくれるあなたが好き。
 私の身も心も蕩かして、ただの女にしてしまうあなたが好き。

 そう思うだけで、笑みが零れる。そういえば、想像してみたことがある。頬を染めて、小松陽子です、と名乗る自分を。

 私は、あなたに何も返すことができない。だから、中嶋陽子をあなたにあげる。私を、小松陽子にしてください。そんな想いを籠めて、尚隆を抱きしめた。熱を帯びた瞳に笑みを返しながら。

「──お前を休ませろ、と六太に言われたのだがな」
「うん……だから、二人で一緒に休もう」

 羞恥に頬を火照らせながら、尚隆の耳に小さな声で囁いた。ほう、と尚隆は面白げに応えを返し、陽子を抱き上げる。そして、片眉を上げ、笑い含みに訊ねた。

「俺と一緒で、お前は休めるのか?」
「……一緒だから休めるんだよ」

 少し意地悪な問いに、頬を染めて応えを返す。そんなこと、訊かなくても分かっているくせに。あなたは、ただ、私に言わせたいだけなんでしょう。喉の奥で笑う伴侶を、軽く睨めつけた。
「──そんな顔をするな」
 苦笑しながら臥室に向かう伴侶に、何の憂いもなく身を預ける。力強い腕の温もりと、規則正しい胸の鼓動と、馴染んだ肌の匂いを感じながら。
 真新しい豪華な牀に辿りつき、尚隆は人の悪い笑みを見せる。玄英宮にはお前を追い立てる仕事はないのだからな、と。金波宮での出来事に意趣返しするようなその一言に、陽子は苦笑しつつも頷く。
 殊勝な覚悟だな、と伴侶は笑う。そして、甘く激しく陽子を抱擁した。その情熱に身を任せながら、陽子は取りとめもなく思う。

 ただの男であるあなたを抱きとめる女は、星の数ほどいるかもしれない。でも──ただの男でありたいあなたを抱きとめるのは、きっと私だけだろう。

 あなたを、愛してる。

 口に出さない幸せな想いを抱いて、今宵もその胸で眠る。皆の祝福を受けた、あなたの妻として。

2006.11.20.
 「1周年記念リクエスト」第6弾、短編「至福」をお送りいたしました。 「慶賀」連作の続きで、「贈物」の陽子視点にあたります。 裏タイトルは「Crazy 'bout you」でございます(笑)。
 助けてください! もう、倒れそうなくらい、甘いです〜! 書いてて、何度痒くなったことか……。 幸せ全開な玄英宮後宮での陽子さん、こんな感じで如何でしたでしょうか?   (いや、もっと甘く! といわれても、これが私の限界でございます……)

2006.11.20. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「連作慶賀」 「玄関」