決 心
「──行ってきます」
鮮やかな笑みひとつ残し、景王陽子は踵を返す。簡素な袍に身を包んだ男装の娘は、固継の門に向けて駆けていった。前だけを見つめるその背を、延王尚隆は黙して見つめる。胸でそっと呟きながら。
──目に見えるものだけが全てではない。己の真実を、己で掴め。お前が王として歩むために。
* * * * * *
その華奢な背中が門を潜り、見えなくなっても尚、その場を離れる気にはなれなかった。もう、何もできることはない。そんなことは重々承知の上だ。しかし──。
この執着は、なんという感情なのだろう。未練、か。それとも──?
己の物思いに尚隆は苦笑する。過保護すきる、と六太はまた怒るのだろう。陽子が王であるために、自ら超えねばならぬこと。それは、延王である尚隆も、遥か昔に越えてきた道。
見送ることしかできない。見守ることしかできないのだ。そして──余計な助力を望む女ではない。景王陽子は、誇り高き女王なのだから。
尚隆は自嘲の溜息をつく。この胸騒ぎも、杞憂に過ぎないのだろう。独りで気を揉んでも仕方ない。帰国しよう、そう思い、騶虞の手綱を握った。そのとき。
空から耳障りな羽音が聞こえた。鳥にしては大きなその音。見上げると、逞しい翼を羽ばたかせる虎が飛んでいた。窮奇だ。しかも、一頭ではない。小さな里を襲う、禍々しき妖魔。
──陽子。
その背を追って駆けだしたい気持ちを抑えた。尚隆は拳を固く握りしめ、唇を噛みしめる。そして瞑目した。里に降りた王に引かれたかのように、妖魔が現れるとは。
──天は、王を試すのか。
天の存在を疑問視しながらも、幾度となく胸に浮かぶ、その問い。傍観者の立場であるからこそ湧き上がる、その答えなき問い。延王尚隆はゆっくりと首を振る。
隔壁の中から聞こえる複数の悲鳴。小さな里に響き渡る、その悲痛な声。荒んだ国で、犠牲になるのはいつも、身を守る術を持たぬ弱き者。そして、登極したばかりの王に、己を無力を見せつけるかのような、その襲撃。
──天は、何故、こうも犠牲を強いるのか。
尚隆は目を開ける。それは、とっくに捨てたはずの憤りだった。そんなものをも思い出させる、年若き女王。己の伴侶と定めた、胎果の娘。
やがて続いていた悲鳴が止み、人々の集まる気配がする。尚隆はそっと姿を隠した。
人々の嘆きの声が聞こえた。そして弔いの声が聞こえた。陽子は、どうしたろう。無論、これしきのことで音を上げる娘ではない。景麒の使令も憑いているであろう。そして、水禺刀を帯びてもいた。
陽子が首尾よく妖魔を屠ったとしても、犠牲になった者は還らない。景王陽子は、その痛みに、独りで耐えているのだろうか。尚隆は深い溜息をつく。
──帰国は、もう少し先にしよう。尚隆はぐいと目を上げ、蒼穹を睨めつける。
──天は王を試すのか。
天が王を試すとしても、ただ試されてなどやるものか。天が犠牲を強いたとしても、所詮玉座など、血で購うものだ。尚隆はそれをよく知っている。
見守ろう、最後まで。それが如何に辛いことであろうとも。悩みながらも、ひたむきに前へ進もうと試みる若き女王。その孤独な戦いを、せめて見届けよう。それが、伴侶のためにできる、唯一のことなのだから。
尚隆は騶虞の背から降り、手綱を取った。そして北韋の街に向かって歩き始めた。
2006.06.22.
長編「黎明」第4回12章で、陽子を見送った後の尚隆でございます。
尚隆が語りすぎたために、第14回41章で、私がばっさり切った場面です。
御題に、と思いつつ書いていたら、案外長くなってしまいました。
というわけで、こちらにアップしてみました。
お気に召していただけると嬉しいです。
2006.6.22. 速世未生 記