「滄海余話」 「献上品」 「玄関」 
takayosi-HAHAさま「24万打記念リクエスト」

金 海

* * *  序  * * *

 荒野に風が啼く。見捨てられた廬。荒れ果てた田。そして住む者のない崩れかけた里。雲海の上から見るよりも遥かに無残な己の国土に、景王陽子は胸を衝かれて絶句した。
 唇を噛みしめて、瓦礫ばかりが目につく焼け焦げた里を見回す。その、くすんだ景色の中に、僅かに色を残すものがあった。それは、里の奥にひっそりと立つ、一本の白い樹。陽子は歯を食いしばり、嗚咽を堪えた。
 雁で初めて見た里木には、とりどりの帯が結ばれ、幾つもの卵果が生っていた。それなのに、里人に見捨てられたこの里木は、煤けた丸裸の枝を晒す。握りしめた拳が細かく震えた。これが、現実。目を背けたくなるようなこの景色こそが現在のこの国の姿。胸に刻んで忘れない。拳を、肩を震わせたまま、景王陽子は胸で誓った。

 あれから季節は幾度も巡っていった。今また晩夏を迎えた慶は、穂を垂れつつある稲がそこかしこで波のように揺れている。まだ青さを残す田も、次第に黄金の海へと姿を変えていく。隣国へ向かう度に自ら確かめることができる己の国土。班渠の背から見下ろす景色を眺め、陽子は唇を緩めた。
 瓦礫ばかりの廬も、荒れ果てた田も、見捨てられた里も今はない。立ち寄れば、どこの里木にも様々な帯が結びつけられ、黄色い実が幾つも生っている。楽しげな小童たちの声も聞こえる。
 慶東国は見違えるほど豊かになった。無論、目標とする北の大国にはまだまだ敵わないのだが。国の果てにある高岫山が目に入る。あの山を超えれば、伴侶が治める雁州国だ。己の伴侶でもある稀代の名君と称される隣国の王が胸に浮かぶ。もうじき、あのひとに会える。弾む想いを抱き、陽子は目を細めた。

* * *  1  * * *

「少し付き合わないか、見せたいものがある」

 相も変わらず、そんな鸞ひとつで呼びつけられた。少し前に当の雁から戻ったばかりだというのに。未だ書卓に積まれた案件の山を思い出し、景王陽子は小さく嘆息する。それでも。
 心の高揚を隠すことはできなかった。陽子は鸞に触れ、笑い含みの誘いをもう一度聞き返す。秘めた恋を公に認めさせてくれた伴侶。延后妃として後宮に滞在した甘い日々は思い出すだけで陽子の胸を熱くする。

 できるだけ仕事を片付けよう。そうして何とか時間を作り出そう。

 陽子は笑みを湛え、愛しい伴侶の短い言葉を繰り返し聞いたのだった。

 その後、万障を繰り合わせて玄英宮を訪ねてみれば、どこへ行くのかも知らされず連れ出された。一国の王を呼び寄せながら、ただついて来いと笑うひと。景王陽子は苦笑を隠せなかった。
 それでも黙って従うのは、伴侶が陽子を驚かせることが巧いと知っているからだ。ときどき腹も立つけれど、今度は何を見せてくれるのだろう、そんな期待が勝ってしまう。今日も先導する雁国延王の背を見つめつつ空を駆ける陽子であった。

 賑やかしく大きな関弓の街を抜け、聳え立つ山を避ける。新たに現れた景色に、陽子は思わず息を呑んだ。それは、視界一面に広がる金の海。
「珍しいか?」
 先を行く伴侶が振り向いて笑みを見せる。陽子は素直に頷いた。
「うん……麦は、燃えるような金色に輝くんだね」
 そう、眼前に広がる黄金の海原は、慶とは違う色に輝いている。穂を垂れる慶の稲は優美だが、頭を擡げる雁の麦は勇壮だ。逞しく育ち、刈り取られるのを待つばかりの金色の穂。この広大な麦畑は、大国雁の豊かさを表している。波打つ黄金の海に、陽子は我知らず溜息を漏らした。
「綺麗……」

「この地が焦土だった頃を、想像できるか?」

 伴侶は穏やかに笑んで問いかける。陽子は首を横に振った。美しい金の海原は、見渡す限りどこまでも続いている。雁州国は、陽子が登極したときから今の今まで変わらず豊かな国だ。
「──できないよ」
 陽子の答えに伴侶は静かに頷き、眼下に視線を移した。その双眸に映るものは、きっと収穫を待つばかりの麦の海だけではないのだろう。陽子ですら、豊かに実る稲穂の向こうにいつかの荒廃を見るのだから。
「でも、あなたは忘れないよね。たとえ何百年経ったとしても」
 陽子は真っ直ぐに伴侶を見つめてそう返す。伴侶は陽子に目を戻して破顔した。それは、見慣れた陽子でさえも赤面してしまうほどに眩しい笑み。しかし。

「──あの頃、雁は、折山の荒、亡国の壊、と呼ばれていた」

 伴侶は低く呟いて金色に波打つ麦の海を見下ろした。豊かに実った畑地には、荒廃の面影などどこにもない。それでも、伴侶には見えるのだろう。かつてその目に映った凄まじいまでの焦土が。
 陽子はそっと目を閉じた。瞼の裏に己が知る自国の荒廃が甦る。見捨てられた廬。荒れ果てた田。崩れかけた里。そして、丸裸の枝を曝す里木。風を切ることがない飛行で、風の啼く音がして、我知らず肩が震える。堪らず目を開けると、そこには王の貌をして己が治める地を見据える伴侶がいた。

* * *  2  * * *

 初めて己の国に足を踏み入れた、あの日。慶の荒んだ国土を目の当たりにしたあの時も、景王陽子の傍には延王尚隆がいた。そして、茫然と立ち竦む陽子に声をかけてくれた。
(……二度と喪われぬよう、お前が、その手で守れ)
 小刻みに震える陽子の肩に手を置き、大国の王は厳かにそう言った。陽子は拳を握りしめ、ただ頷くことしかできなかった。何かを言えば、嗚咽が漏れる。そんな無様な姿を見せたくはなかった。だから、陽子は歯を食いしばって耐えてみせた。そんな強がりも、このひとにはお見通しだったろう。けれど。
 延王尚隆はそれ以上何も言わず、新米王の震えが止まるまで待っていてくれた。あれはまだ登極前、景麒奪還に挑んだ景王陽子の初戦の前哨であった。なんと昔のことなのだろう。

 思い返せば、陽子は延王尚隆に導かれてきた。容昌で初めて会ったあの時から、ずっと。悠久の時を王として過ごす稀代の名君は、時に優しく、時に厳しく陽子を諭した。
(気を散じるな)
(お前には王気がある)
(迷うなよ、お前が王だ)
(どうせ玉座など血で贖うものだ)
 未だ胸に響く、景王陽子の拠り所となっている数々の言葉。離れていても、いつも支えてくれた。王として、また、伴侶として。登極したばかりの頃も、尚隆は悩める陽子を励ましてくれていた。しかし。
 延王尚隆が、己の登極当時を語ったことはない。四分一令という初勅のことは教えてくれたが、陽子が訊ねても、それ以外のことを聞かせてはくれなかった。残念に思ったものだが、もしあの頃、それを聞くことが叶っていたら。陽子は稀代の名君が行ったとおりにやってみようと試みたかもしれない。時代も国情も、何もかもが違うというのに。

 ああ、そうか。だから、このひとはあのとき、ただ、焦るな、とだけ告げたのだ。寿命は長いのだから、と。

 伴侶の意図にようやく気づき、陽子は薄く笑む。
 官につけられた赤子という字同様に無知だったあの頃。己が何を知っていて、何を知らないかも分かっていなかった。分からないなりに何かをしようと足掻いた。悩んだ挙句、街に降りて己の目で国と民を見つめた。そして、己の不甲斐なさを知った。
 そんな陽子の奮闘を、このひとは黙って見守っていてくれた。それが、このひとの優しさ。そして今。
 陽子は目の前に広がる金の海を見つめる。この豊かに実る麦畑でさえも、遥かな過去には焦土だったという。折山の荒、亡国の壊、とまで言われた雁州国を見事に立て直した偉大な王が、陽子に見せたいものとは何だろう。この金の海は、ただ美しく豊かなだけではない。今の陽子にはそれがよく分かる。

 今まで聞いたことがない昔語りを聞かせてくれるのかもしれない。常に前を見つめ、道の先を示してくれたひとが、己の歩んできた足跡を語ってくれるのかも。それは、このひとが、陽子を一人前と認めてくれた証。
 そう、このひとは陽子のために左を空けてくれた。今ならば、陽子はずっと見上げてきた伴侶の隣に胸を張って立てる。隣国の王としてだけではなく、公に認められた后妃として。

 ふたりだけの旅は始まったばかり。急がずに、見て、聞いて、このひとに寄り添おう。時は緩やかに流れていくのだから。物言わぬ広い背とどこまでも続く金の海を眺め、陽子は笑みを刷いた。

2013.04.06.
 takayosi-HAHAさまによる「24万打リクエスト」短編「金海」をお届けいたしました。 長編「滄海」第2回の陽子視点でございます。 秋に出したかったお話でございますが、季節はすっかり春。 相変わらず筆が遅くて申し訳ございません
 今回のお題は「陽子を大切に思い行動する尚隆」でございました。 私的には、これしかない! と気負って書き始めました。 けれど、少し(かなり?)糖度が足りないかもしれませんね〜。 陽子愛されてるな〜って感じるようなお話になっているかどうか……。
 お気に召していただけると嬉しゅうございます。 リクエストをありがとうございました!

2013.04.07. 速世未生 記
背景画像「北海道無料写真素材集 DO PHOTO」さま
画像加工 絵描き・速世未生
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