初 志
波の音がした。子供の頃から聞き慣れた、波が寄せては引いていく音が。そして──。
(──若)
呼びかける幾つもの声がした。悪たれ、甲斐性なしと揶揄しながらも、笑いを含む、数多の声。それなのに。
守ってやれなかった。助けてやれなかった。お前たちは、国を守れなかった主を、もっと恨んでもよいのに。
目覚めた延王尚隆は、ふ、と自嘲の笑みを浮かべる。ゆっくりと身を起こし、夜着のまま露台に出た。そして、空の上にある不思議な海を見下ろす。
打ち寄せる波も吹きつける風も、瀬戸内の海とはどこか違う。うっすらと青みを帯びた透明な水を透かして地上が見えるなど、故郷では有り得ない話だった。
見慣れたあの海とは繋がっているはずもない異郷の海を眺め、尚隆は最後に見た瀬戸内の海を思い出す。血に染まり、死体ばかりが浮いた海を──。
ひとりで生き残る気などなかった。国や民とともに逝くつもりだった。守らなければならなかったものが、指の隙間から呆気なく滑り落ちていった。何もかもを失くし、どう生きろというのか。そんな、最期のとき。
「国がほしいか」
浜で拾った子供がそう訊いた。守るべきものを守ることができず、全てを失った。まだ、この手に託されるものがあるならば。
「──ほしい」
心からそう思った。心のままにそう答えた。何もかも捨てて一緒に来るならば国をやろう。子供はこれまでとは別人のような声で、厳かにそう言った。この手に残されたものなど何もない、と苦笑した尚隆に、子供は告げた。二度と瀬戸内の海にも島にも戻れない、と。
その言葉どおり、この世のものとは思えぬ隧道を潜り、尚隆はこの地にやってきた。雲海の上から眺めても、荒廃しかない、異郷のこの国に。そして、無から一国を興すという大任を、天とやらからもぎとったのだ。
手に入れたものは、他国から理不尽に攻められることがないという国。そして、民に安寧を齎すための、歳を取ることがなくなったという身体。
若、と呼ばれるたびに一緒に託された願いを、未だに背負い続けてる。それを、喪われた瀬戸内の民に返す術はない。だからこそ。
預けられたこの国を、少しずつ立て直していこう。そして、国と民を、ゆっくりと守り慈しんでいこう。
頼む、と泣きそうに呟いた子供に、任せておけ、と笑みを返した。そんなふうに、これから託される数多の想いに報いながら生きるのだ。
眼下には、果てしない未来が広がっている。豊かな緑の土地と、笑いさざめく民の声。
今度こそ、必ず手に入れてみせる──。
荒れ果てた己の国を見下ろしながら、延王尚隆は薄く笑む。胸に熱い思いを秘めながら。
2007.07.25.
「2007管理人にプレゼント(!?)アンケート」ご協力御礼小品「初志」をお届けいたしました。
御題と変わらぬ長さの原稿用紙3枚強の作品に、2週間もかけてしまいました(溜息)。
長らくお待たせして申し訳ございませんでした。
「黄昏」で500年振りに虚海を超えた尚隆。初めて虚海を超えたときはどうだったのだろう?
との疑問から始まった妄想でございました。お気に召していただければ嬉しく思います。
アンケートにご回答くださった15名の皆さま、こんな粗品でよろしければ
どうぞお持ち帰りくださいませ。ご協力ありがとうございました!
2007.07.25. 速世未生 記