「献上品」 「滄海余話」 「玄関」 
みるくうさぎさま「222222万打記念リクエスト」

陽 光

* * *  1  * * *

 陽光の気配が遠ざかっていく。何度経験しても慣れないその感覚に、景麒は深い溜息をついた。そのまま手を止めて窓の外に広がる蒼穹を見やる。晩夏の空は、思いのほか陰鬱な色をしていた。
 主は再び隣国へと旅立った。大袈裟な見送りはいらない、と明言し、騎獣の代わりもする使令のみを供として。だから、景麒も禁門での見送りをも控え、己の執務室に残ったのだった。

 慶賀の挨拶としての雁州国公式訪問から主が戻って間もなく、延王尚隆が鸞を寄越した。主の伴侶の気紛れな招聘に、景麒は難色を示した。
 現在の慶は落ち着いており、大きな案件はない。とはいえ、国主が留守をしている間に溜まった政務は多い。それに、王は国を留守にすべきではない、と景麒は思うのだ。しかし。
 主は山積みされた書簡を軽快に捌き、呆気ないほど綺麗に政務を片付けた。その上で、常の如く景麒に許可を求めたのだ。
 麒麟は王の下僕。主は景麒に命じるだけでよい。行ってくる、と宣してくれれば、大人しく頭を下げて従うのに。件の遣り取りを思い出すだけで溜息が出る。

 主は遠慮がちに、雁に行ってもよいか、と切り出した。そう訊かれれば、お戻りになったばかりでしょう、と本音が口をついて出てしまう。主が困った顔をすることは分かっているというのに。
 堪らず主の顔から視線を落とした。揉み絞る細い指に宿る銀色の光が目を射る。装飾品を嫌う主の指を飾る繊細な指輪は、主の伴侶からの贈り物。それは、景麒の心を一層頑なにした。
 沈黙する景麒を持て余し、主は冢宰浩瀚に視線で助けを求める。これもいつものことであった。浩瀚は主の意向に沿いつつも己の言い分を過不足なく伝える。その如才なさは感嘆すべきものだ。

 蓬莱では婚姻の際に旅行に出かける風習がある。

 浩瀚はそう書かれた延麒からの書簡を景麒に差し出した。生真面目な景王が自ら言い出す筈がないから、と書かれたその書類を見て、景麒は深々と溜息をつく。
 気儘な延麒といえど、やはり麒麟である。己の主の意を汲もうとするのは道理であろう。その気持ちはよく分かる。しかし。
 放埓な隣国の王の人の悪い笑みが頭を過り、景麒は顔を蹙める。浩瀚に宥められて尚、素直になれずにいた。そんなとき。

「今は、国を揺るがすような案件もございませんしね」

 さりげなく放たれた一言に、景麒ははっと顔を上げる。浩瀚は柔和な貌で景麒を見つめていた。束の間、目と目が合う。浩瀚が何を言いたいのか、景麒は瞬時に理解した。
 そのまま主を見やる。そして、心を蝕んでいた昏い闇を払った主の澄んだ瞳に魅せられた。翠玉のように輝かしく、湖のように深い色を湛えた美しいその瞳に。

 この宝玉を、永遠に喪ってしまうところだったのだ。己の半身である王を、再び。

 暗闇を見つめる主を引き留めることができず、景麒は悶々とした日々を過ごしていた。かつて体験したことがあるだけに、それは耐え難いものだった。そんな痛みを抱え、眠れぬ夜を幾度過ごしただろう。誰に相談することも適わぬまま――。
 そんな主の暗闇に、浩瀚が気づいた。動きが取れなかった景麒に、光明を示してくれたのも浩瀚だった。半身である景麒にもできないことを、伴侶である隣国の王に託す、という苦渋の選択。それができたのは、浩瀚の諫言があったからこそ。
 目を戻すと、浩瀚は穏やかな笑みを湛え、軽く頷いた。そう、主は、景王陽子は、この世に留まることを選んだのだ。そして、主を引き留めたのは、隣国の王。
 半身を喪いかけた苦痛も、半身を取り留めた安堵も、共にまだ生々しく身の内に残っている。王同士の婚姻を公にする、と決断した主の伴侶に対する複雑な思いもまた。それでも、景麒は微かに唇を緩めた。
「──行ってらっしゃいませ」
 そう告げると、主の顔は歓喜に輝いた。伴侶を想い、匂やかに花開く鮮やかな笑みは、心が痛くなるほどに美しかった。だが、その痛みは物悲しくはあれど、喪失の辛苦とは比べるべくもない。

 陽光の王気は遠ざかる。しかし、主の微かな気配が途切れることはない。景麒は小さく息をつきつつも唇に笑みを浮かべた。

* * *  2  * * *

「失礼いたします」
 取次の下官が足早に現れた。ご伝言が、と下官は告げる。主の古参の側近たちからの茶会への誘いであった。主がいるときであれば珍しくもないが、国主留守中となれば常ならぬことである。景麒は少し困惑し、首を傾げた。
「如何お返事いたしましょうか」
「行く、と伝えよ」
 畏まりまして、と一礼し、下官は退っていく。いったい何があったのだろう。景麒はもう一度首を傾げ、執務に戻った。

 指定された刻限に茶会の場所となる庭院に向かった。国主の執務室から見下ろせるそこは、主の側近がよく集う場所でもあった。
「台輔、ようこそいらせられました」
 女史祥瓊と女御鈴が声を揃えて頭を垂れる。軽く頷きかけると、席に案内された。いつもは主が坐る上座に誂られたその席に、景麒は胸に小さな痛みを覚える。強いて見回すと、用意された卓子に集った者は、冢宰浩瀚を筆頭に主の側近中の側近ばかりであった。

「それでは、主上の置き土産を賞味する会を始めたいと存じます」
 改まった口調ながらも茶目っ気を交える祥瓊の口上に、場が笑いさざめいた。主の置き土産とは何だろう。と景麒はひとり首を傾げる。それを見て、鈴が笑い含みに口を継いだ。
「立て続けに国を空けることとなった主上は、さすがに心苦しく思われたらしく、蓬莱風のお菓子を作って置いていかれました」
「なんでも、少し日を置くと味が馴染んで美味しくなるお菓子だそうですよ」
 祥瓊がそう補足すると、皆はまた笑いを零す。あの多忙な日々の合間にこんなことまでしていたのか。景麒は少し呆れて鈴が配り始めた菓子を見つめた。狐色に焼かれた四角いそれは、断面に幾種もの木の実が散りばめられた素朴なものだった。
「台輔、これも『けーき』の一種だそうですよ」
 鈴はにっこりと笑って主の置き土産を差し出す。「木の実のぱうんどけーき」というそうです、と続ける鈴から菓子の皿を受け取って、景麒は微かに唇をほころばせた。

 ぶっきらぼうな主だが、存外に料理や菓子作りが上手であった。蓬莱では女らしくあれ、と育てられたから、と主は折に触れて言っていたが、武断の女王の凛々しき姿からは想像しがたいことであった。
 王が厨房に立つなど有り得ない、と景麒は眉を顰めた。しかし、主にとっては良い気分転換になるそうで、止めさせることはできなかった。また、祥瓊や鈴と作業する主は娘らしく楽しげで、心和む情景でもあったのだ。

「竈の扱いにもすっかり慣れた様子でしたので、なかなかな出来上がりですよ」
 茶を差し出す祥瓊もそう言って笑顔を見せる。口々に感想を述べる人々の話を聞きながら、景麒も菓子を口にしてみた。仄甘くしっとりとした優しい味だ。
「台輔、如何でしょうか?」
「美味しい」
 心配そうな鈴の問いに、景麒は簡潔に答えた。鈴と祥瓊が顔を見合わせて微笑む。その顔に、主の笑みが重なって見え、景麒は思わず目を瞬かせた。

「主上が喜ばれると存じます」
「台輔には心配をかけた、と神妙にしておられましたから」

 主の友たちの言は、辛い日々を思い起こさせた。しかし、その笑みは慈愛に満ち、まるで主が友を通して景麒に語りかけているよう。景麒はそっと目を閉じた。

 盛大に催された慶賀の宴の陰に潜んでいた闇を知る者は少ない。主は、胸に抱く暗闇を、古くからの友にさえ悟らせなかった。しかし、何も知らぬ者をも思いやり、暖かく照らす光こそが我が主。

 目を開けると、浩瀚の笑みが見えた。同じ想いを知る者が、そこにいる。見回すと、卓子を囲む者全てが優しい笑みを浮かべていた。茶会が開かれたわけを悟り、景麒は静かに笑む。皆の思いやりは心に深く沁みていた。

 主は、どこにいようとも、慶を遍く照らす陽の光。

 微かに感じる王気は、変わらずに景麒を優しく包んでいるのだった。

2011.12.21.
 みるくうさぎさまによる「222222万打リクエスト」でございます。 長らくお待たせいたしまして申し訳もございません。
 お題は 「陽子主上が新婚旅行で留守中の金波宮で、最悪の事態を回避できて ホッとしつつも寂しい景麒と慰めようとする人々」 でございました。
 陽子主上が抱く昏い闇に気づいたのは景麒と浩瀚ただ二人のみ。 それを踏まえて、景麒視点で慰安お茶会を書いてみました。
 景麒視点は陽子視点よりも更に素っ気ないものとなりました。 けれど、景麒は景麒できちんと周囲の思いやりに気づいているのだと知ることができて 良かったと思います。
 お気に召していただけると嬉しく思います。 リクエスト、ありがとうございました〜。

2011.12.21.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「献上品」 「滄海余話」 「玄関」