「尚陽小品」 「玄関」

姫 初ひめはじめ

 新年の儀式が終わるやいなや玄英宮を抜け出した。そんな年があってもよい。側近は怒るだろうが、理由など幾らでもつけられる。己は、王なのだから。雲海の上を駆ける延王尚隆は唇を歪めた。

 麒麟を除けばこの世で最も脚の速い騎獣を駆り立てて、ひたすら海の上を飛ぶ。疾く、疾く。頭上の月明りも、眼下の街灯りも、見る間に置き去りにして高岫山を越えた。やがて。

 目指す宮に辿りつき、広い露台に騎獣を降ろす。灯りの消えた堂室の大きな窓をそっと開けて、身を滑りこませた。ほんのりと暖かな室内、尚隆は褞袍を脱ぐ。そして静かに臥室へと歩を進めた。
 牀榻の幄を開けると、薄闇の中で伴侶が寝返りを打った。淡い月光が眼を閉じる美しい顔を仄かに照らす。眩しげに薄目を開けた伴侶が、華奢な腕を真っ直ぐに伸ばした。尚隆は笑みを浮かべてその小さな手を取る。そして、身を横たえて伴侶を抱きしめた。背に回された温かな腕が心地よい。しかし、微かな違和感に尚隆は首を傾げる。衣の上から細い身体をなぞり、尚隆はそのわけを悟った。

「陽子……夜着が裏返しだぞ」

 耳許で低く囁くと、柔らかな身体が一気に硬直した。半分眠っていた伴侶は、大きく眼を瞠り、小さな声を上げた。狼狽える伴侶の朱唇が真面な言葉を紡ぐことはない。尚隆は小さく嘆息した。
「――まあよい。どうせ脱ぐことになるのだからな」
 伴侶の耳朶を甘噛みしながら、尚隆は低く笑う。そして、羞じらいに熱くなった滑らかな頬に優しく口づけた。
 そのまま額、鼻梁へと唇を滑らせて、辿りついた朱唇を甘く吸い上げる。身を固くしていた伴侶は、漸く力を抜いて尚隆の情熱に応えた。

「――夢だと思った」
「夢ではないぞ」

 あえかな声に笑って答え、尚隆は伴侶の肢体を抱きしめる。忙しない正月の隙間を縫い、遥か高岫を越えてやってきた。その努力を夢にしてほしくはない。そんな想いを籠めて、滑らかな素肌を愛撫した。こんな年の初めから伴侶を胸に抱けることなどそうない。ああ、と尚隆は唇を緩める。

 蓬莱の暦には、姫初め、と記してあった。無論、公の意味は別にあるが、愛しい女を初めて抱く日でもある。互いに王、頻繁に会えるわけではない。ましてや、正月になど。だからこそ。

 姫初めを心ゆくまで愉しみ、寄り添って幸せな初夢を見よう。尚隆は果てて眠る伴侶を抱えたまま、己も眼を閉じた。

 翌朝、薄明りで目を覚ます。眠れる伴侶の寝顔を心ゆくまで眺め、解れた髪をそっと掻き上げた。そのまま翠の宝玉が現れる様を楽しむ。眼を開けた伴侶は美しい笑みを見せた。口づけを交わし、微笑みを交わす。少し気怠い後朝の朝を過ごした後、尚隆は昨夜の小さな疑問を思い出した。

「――で、どうして夜着が裏返しだったのだ?」

 脱ぎ捨てられた夜着にちらりと眼を遣った伴侶は、唇を尖らせて横を向く。頬を朱に染めた伴侶が尚隆の問いに答えることはなかったのだった。

2017.01.02.
 明けましておめでとうございます。
 昨年出した拍手其の四百五「姫初め」を加筆修正して持ってまいりました。 新たにいらした方も多いようなので、出してみるか、と。
 「十二国記の日」関連で硬いお話を書きましたので、ちょっと反動が来ております。 このようなものを表に出すようになるとは……(苦笑)。 短い作品ですが、さすがに御題に出す気にはなれませんでした……。
 御題其の百七十四「初夢祈願」の尚隆視点になります。 昨年初めにあちこちでお見かけした姫初め、尚陽では難しいな〜と思ったのですが、 お正月の色小品を思い出して視点を変えてみたのでした。
 楽しんで書きましたので、皆さまにもお楽しみいただけると幸いでございます。

2017.01.02. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「尚陽小品」 「玄関」