甘 熟
さらさら、さらさら──。筆が紙を滑る心地よい音が絶え間なく聞こえる。吹き抜ける風が、馥郁とした墨の香りを鼻腔に運び、穏やかな空気とあいまって快い眠気を誘う。
その姿もすっかり様になったな、筆の滑りが悪かった頃は眠くなることなどなかったのに。
──取りとめのないことを思いながら、しばし意識を手放した。と、不意にその音が止んだ。微かな衣擦れとともに近づいてくる鮮やかな気配。そして笑みを含んだ涼やかな声が耳許に響く。
「──お待たせいたしましたか、延王」
榻に寝転んでまどろんでいた尚隆は、ゆっくりと目を開けた。
* * * * * *
ここは慶東国景王の居城である金波宮。延王尚隆は、すっかり馴染んだ国主景王陽子の執務室で、伴侶の政務が終わるのを待っていた。
「──待った」
尚隆は短く応えを返した。にやりと笑みを浮かべ、覗きこんでいる美貌の女王の手を引く。細い身体を己の腕の中に収めると、その朱唇に口づけを落とす。官服を纏った麗しい女王は、気儘な伴侶に苦笑を隠さない。
「せめて堂室まで待ってほしいな」
「──待てぬ、と言ったら?」
どうせ、他には誰もいない。女王の執務室といえども、尚隆がいる限り、不躾に踏みこんでくる臣はいないだろう。秘密が秘密でなくなったときから、延王尚隆の意思を妨げようとする不遜な者などいない。
ただ一人を除いては。
小首を傾げて見つめ返す伴侶の応えを待たずに、今度は長い口づけを送る。伴侶はそれを拒まない。しかし、そのまま素肌に触れようとした手を、華奢な手がやんわりと押し返す。
「それが答えか?」
唇を離して訊ねると、伴侶は何も言わずに微笑した。その笑みは艶麗で、見慣れているはずの尚隆でさえ思わず見とれてしまうほどだった。
強かに美しくなったものだ。
今度は尚隆が苦笑した。出会った頃はほんの小娘で、尚隆の一挙手一投足に困惑して涙を浮かべるばかりだったのに。あの稚い女王が、こうも女の武器を行使するようになるとは、あの頃は考えもしなかった。しかも、この男装の麗人はその意識が極めて薄い。尚隆は嘆息した。
「──お前の側近を、憐れに思うぞ」
「どういう意味ですか、それ」
伴侶は翠玉の瞳を大きく見開く。尚隆は軽く笑う。
「言葉どおりの意味だが」
「──それ、あなたに言われたくないな」
「俺の側近など、物の数でもない」
「それは酷い。あんなに虐げられているのに」
「お前のほうが、よっぽど酷いことをしているぞ」
なおも言い募ろうとする伴侶にもう一度口づけを落とす。あんな艶やかな笑みをいつも見せつけられたのなら、男は堪らないだろう。しかも、本人は自分の器量に無自覚無防備ときてる。奴らはこの女に触れることすらできないというのに。
生殺しだな、気の毒に。──罪な女だ。
あの取り澄ました冢宰辺りにこんなことを言ったら、氷のように冷たい応対を受けるのだろう。そう思うと尚隆は込みあげる笑いを抑えられない。
鮮烈な武断の女王。
己の伴侶──景王陽子はそう表現されることが多い。咲き初めた紅の花のような十六歳の容貌とは裏腹な男装とぶっきらぼうな言動。そして、愛剣水禺刀を常に腰に佩き、身のこなしに隙がない。内乱平定にも自ら乗りだす女王であった。
豊かな緋色の髪を纏める組紐だけを装飾品とするこの女王の凛とした美貌は、人を動かす力がある。それ自体が宝石を思わせる翡翠の勁い瞳に見つめられて、否と言えるものは少ないだろう。
己の伴侶は隣国の女王。決して己だけのものにはならない女。だからこそ、この腕に閉じこめてしまいたくなる。その朱唇に愛の言葉を語らせたくなる。尚隆は微笑し、伴侶を抱く腕に力を籠めた。
「──陽子」
「何ですか」
「まだ、答えを聞いていないのだが?」
「──もう忘れてると思ったのに」
「まだまだ甘いな」
意地悪な笑みを浮かべて応えを求める尚隆に、伴侶は少し困った顔で笑みを返した。それは少女めいて、武断の女王を可愛らしくさえ見せた。尚隆はその様子に目を細める。
──さて、どうするのだ?
少し思案すると、伴侶は尚隆の首に細い腕を回し、小鳥のように軽やかな口づけを寄越した。尚隆は微笑する。
──そうきたか。
「──これで我慢してください」
耳許でそう囁くと、女王は花がほころぶような美しい笑みを見せた。そして、身体に緩く回された尚隆の腕をさり気なく解いて立ち上がる。毒気を抜かれて、尚隆はくつくつと笑った。
「──俺に我慢を強いるのは、お前くらいのものだ」
「──尚隆。ここがどこかお忘れか?」
先に立って歩いていた伴侶はくるりと振り返ると、腰に手をあて、諭すようにそう言った。尚隆は片眉を上げて問う。
「──慶だな。それがどうした」
「慶東国の王は私。私が主。景王の勅命だ。いい? たまには我慢なさい」
景王陽子は細い指を真っ直ぐに延王尚隆に向け、ビシリとそう命じた。その意外な迫力に、尚隆は一瞬呆気に取られ、すぐに破顔した。
「──本当に、お前といると、退屈することがない」
「私を退屈凌ぎの玩具のように言うのは止めてほしいな」
「全く、俺に我慢を強いるのは、お前くらいのものだぞ」
もう一度そう言うと、尚隆はゆっくりと立ち上がり、伴侶の後ろに従って執務室を出た。尚隆は伴侶に甘く声をかける。
「──陽子」
「──何?」
背中に緊張を走らせた女王はもう振り向かない。尚隆は薄く笑む。
「次は是非とも景王を雁にご招待申し上げる」
「──謹んでお断り申し上げます」
硬い声で即答する女王に、隣国の王は遠慮のない哄笑を浴びせた。息も絶え絶えに笑う尚隆を、頬を朱に染めて女王が振り返る。
「そこまで笑うことないだろう」
「──お前は面白い女だな」
目尻に滲んだ涙を拭いながら尚隆は伴侶の肩に腕を回す。重い、と抗議の声を上げる伴侶に頓着せずに、尚隆は呵呵と笑って回廊を歩く。
お前を得るための我慢ならば、甘んじてしてみせよう。延王尚隆に阿ることのない、稀有な女のためならば。
そして、辿りついた女王の堂室で、尚隆は伴侶に情熱的な甘い口づけを落とす。女王はもう己の伴侶の熱い手を拒むことはなかった。
2005.10.05.
今までのものよりもう少し先のお話です。
「秘密が秘密でなくなった」と 尚隆が申しておりますので、そうなのでしょう。(笑)
「報われない浩瀚」を書き続けていると、なんとなく「報われない尚隆」を
書きたくなったのですが、このひとは一筋縄ではいかない!
「報われない」のは どうも許せないようです……。
思ったよりも色気がなくなったのですが(珍しく!)、微妙な緊張感を孕んでいますね。
お気に召していただけると嬉しいです。
2005.10.05. 速世未生 記