「尚陽小品」 「玄関」

稀 有

「陽子!」
 友の声に振り向くと、祥瓊は満面に笑みを浮かべている。その手にある物を見てとり、陽子は脱兎の如く逃げ出したのだった。

 どうして懲りてくれないのだろう。

 陽子は泣きそうになりながら回廊を駆ける。官服の気楽さに慣れた身には、襦裙など苦痛でしかないというのに。元は公主で、いつもきちんと襦裙を着こなす祥瓊には分からないのだろうか。そんなとき。
 あっと小さな声がした。反射的に振り返る。息を弾ませた祥瓊が、足を縺れさせてよろけていた。陽子は躊躇うことなく友の許に駆け戻った。
 倒れかけた祥瓊の身体を支える。友に触れた陽子は、その軽さに驚いた。思わず手を伸ばして確かめる。まろやかな肩、ほっそりとした腕、なよやかな腰。抱きしめると、女の陽子の腕にもすっぽりと収まってしまう、小さくて柔らかな女らしい祥瓊の肢体。

 硬くて丈夫な陽子の身体とは大違いだ。

「――陽子?」
 胸で思っただけの言葉が、唇から漏れ出てしまったのだろうか。祥瓊が上気した顔で見上げてくる。追いかけっこで祥瓊に負けたことはない。陽子は王師とともに訓練をしているのだから。それでも、祥瓊は襦裙を片手に陽子を追いかける。息を切らし、うっすらと汗をかきながら。そんな祥瓊が妙に艶めかしく見えて、陽子は目を逸らした。
「なんでもない、ごめん」
 ただの劣等感だ。優雅で流麗な祥瓊には決して敵わないのだから。陽子は自嘲の笑みを漏らす。そしてまた驚いた。己の中に、容姿で祥瓊と張り合おうとする気持ちがあるのだ、と。陽子は軽く頭を振る。武断の王に女らしさを求める者などいない。
「なんでもない様子じゃないわよ。これだけ人に絡んでおいてなんなの?」
 挑戦的な目を向けられて、陽子は虚を衝かれた。確かに絡んだことになるかもしれない。無遠慮に身体に触れた挙句、抱きしめてしまったのだ。そうして思い出す。祥瓊は、ただ綺麗なだけの娘ではない。見透かすような紫紺の瞳に魅入られて、陽子は苦笑した。口から零れたのは、気弱な本音。

「――私は、祥瓊のように、女らしくはなれないんだ」

 聞いた祥瓊は、襦裙を握りしめたまま、ぽかんと口を開ける。それから、鈴を転がすように笑い出した。陽子はわけが分からずに祥瓊を見つめるのみだ。散々笑った後、祥瓊は陽子の手を掴んでさっさと歩きだした。
「――祥瓊?」
「黙ってついてきなさい。まったくもう……」
 呆れたように命じる祥瓊に連れて行かれた先は、王の衣装室。いつもならば息を呑んで逃げ出すだろうそこに素直に入ったのは、自信に満ち溢れた祥瓊に気圧されたからだ。
 ちょっと待っていて、と陽子に声をかけ、祥瓊は確かな手つきで入用なものを揃えていく。陽子は魔法を操るかのようなその手に魅せられていた。

 綺麗なものが嫌いなわけではないのだ。登極当時、わけも分からぬままに、こうあるべき、と強要されて違和感を覚えた。あの頃、大人しくしていると、女御たちの着せ替え人形にされてしまった。そして、古参の官吏たちは、それを歓迎していた。
 蓬莱の振袖よりも仰々しい王の盛装姿。国の威信を背負うというその姿は、陽子に苦いものばかり思い起こさせる。あのとき叩きつけられた言葉をも。

(女王は国を荒らす)
(弑してしまえ)

 好きで女に生まれたわけじゃない。望んで王になったわけじゃない。それでも、王として立ったからには国のために身を尽くしてきた。良かれと思って行ったことすらも責められて、途方に暮れた――。

「さあ、こちらへどうぞ」
 祥瓊の声が陽子の物想いを払った。必要なものを全て選び終えた祥瓊は、陽子を鏡の前に連れていく。それから、黙したままに陽子の装いを整え始めた。官服を脱がされて、小衫から着替えをさせられる。下着からして違うのだ、と思いつつ、襦裙の着付けが終わるまで、陽子は大人しく祥瓊に従った。やがて。
「できたわ。これでも女らしくないと言えて?」
 髪を梳り、小物を飾り、化粧を終えて、鏡に映る陽子を見つめた祥瓊は自信ありげにそう言った。いつもの自分とは全く違うその姿は、違和感だけを陽子に齎す。陽子は歯切れ悪く思いを口に出した。
「確かに……女には見える、けど……」
 言うなり肩を小突かれた。挿された歩揺がしゃらんと涼やかな音を立てる。祥瓊は腕を組み、憤慨したように続けた。
「申し分なく綺麗よ、陽子。私の腕を信じなさいってば」
「だって……」

 見慣れない。着慣れない。化粧も襦裙も似合わない。

 陽子は俯いた。さあ戻るわよ、と祥瓊は苦笑して陽子を促す。執務室に向かう回廊で出くわした官吏たちは、一様に目を見張り、慌てて国主に深く頭を下げた。陽子はその度に深い溜息をつく。
「――やっぱり似合わないんだ」
「みんな陽子が綺麗で驚いているのよ」
 その度に祥瓊も同じ言葉を繰り返す。けれど、陽子はそれを信じることができずにいた。

 執務室に着くと、意外な人影がある。榻で勝手に寛ぐ気儘な賓客を見つけ、陽子は目を見張った。
「――あれ、延王。いらしていたのですか?」
 どうしよう。声が震える。なんて間が悪いのだろう。よりによってこんな姿を見られるなんて。久々に現れた伴侶の視線が怖い。陽子は逃げ出したい気持ちに駆られた。けれど――。

「いいところに来たようだ。祥瓊、よい仕事をしたな」

「お褒めに預かり光栄ですわ」
 尚隆は上から下まで陽子を眺め、満足げに破顔した。褒められた祥瓊も嬉しげに頭を下げる。しかし、陽子は目の前で起きていることを巧く把握できずにいた。尚隆は混乱する陽子にゆっくりと歩み寄り、おもむろに手を取った。そして。
「目の保養になる」
「――!」
 延王尚隆は陽子の手の甲に恭しく口づけたのだ。陽子は瞬時に固まった。耳も頬もあっという間に熱くなる。

 このひとは、どうして不意にこんなことをするのだろう。

 恨めしく見つめると、伴侶は片目を閉じて楽しげに言った。
「麗しき女王の稀有な姿に敬意を表してみたのだが、不満か?」
「ふ、不満とかそういう問題では……」
「主上、私が申し上げたとおりだったでしょう?」
 大変お綺麗ですわ、と続け、祥瓊は勝ち誇ったように笑う。そして、茶の支度をする、と言い置いて踵を返した。この状態で二人きりにされたくない陽子は、慌ててその背を追いかけようとしたのだが――。

「祥瓊、急がずともよいぞ」

 笑いを含んだ声が耳に入ると同時に、陽子は逞しい胸に引き寄せられた。何を、言いかけた唇が指で塞がれる。目を白黒させる陽子に構うことなく、祥瓊は優雅に頭を下げた。
「延王の仰せのままに」

 祥瓊が退出し、扉の閉まる音がした。尚隆はそのままひょいと陽子の身体を抱き上げる。陽子は小さく悲鳴を上げた。
「え、延王……!」
「祥瓊が人払いをしてくれる。心配するな」
「そういう問題じゃないです!」
 尚隆はいつものように軽口を叩く。執務室ですから、と叫び、陽子は頬を染めてじたばたと暴れた。が、尚隆はそれを全く意に介しない。低く笑い、尚隆は伴侶の顔を見せた。

「――こんな稀有な機会はそうないからな」

 ああ、どうしてこんなときにそんなことを言えるのだろう。

 陽子はまたも固まる。伴侶の囁きは、陽子を陥落させるに充分な言葉だった。陽子は身体の力を抜いて目を閉じる。そうして伴侶の甘い口づけを受け入れた。

 蟠りが解けていく。

 硬くて丈夫な陽子を軽々と抱き上げる逞しい腕。このひとの傍にいるときは、女に産まれてよかった、と素直に思える。女である己を厭わずに済む。感謝を籠めて微笑むと、伴侶の目は悪戯小僧のように瞬いた。

「金波宮の日常茶飯を垣間見た。楽しげでよいな」
「楽しくないです! 非日常茶飯ですから!」

 陽子は顔を蹙めて即答する。案の定、伴侶は呵々大笑した。やれやれ、と深い溜息をつく陽子であった。

2012.02.28.
 短編「稀有」をお送りいたしました。 御題其の百七十二「非日常茶飯」及び其の百七十五「日常茶飯」の 陽子視点でございます。
 陽子主上が考えこんでしまったために迷走し、視点を変えてみたのが御題でございました。 何とか語り終えてくださって、ほっといたしました。
 お気に召していただけると嬉しく思います。

2012.02.28. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「尚陽小品」 「玄関」