休 息
自室に戻ると隣国に再度送った親書が戻ってきていた。前回鸞が語った言葉を思い出し、陽子は顔を蹙める。最近音沙汰ない伴侶へ決死の想いで送った鸞がすぐに戻ってきたのは喜ばしいことだ。でも。
意地悪なことを言う笑い含みの伴侶の声が耳の奥で響き、陽子は首を横に振る。今度はどんな無理難題を吹っかけるのか。鸞に眼を遣っては溜息をつく。そんなことを何度か繰り返すと、きゅる、と鸞が鳴いて小首を傾げた。聞かなくてよいのか、と訊ねられたような気がして陽子は更に深い溜息をついた。意を決して鸞に近づき、そっと頭に手を伸ばす。鸞は嘴を開いた。
「待っている」
耳に馴染んだ明朗な声が、深く優しい響きで一言そう告げた。陽子はぽかんと口を開ける。聞き間違いだろうか。もう一度、恐る恐る鸞に触れる。鸞はゆったりと同じ言葉を繰り返した。
待っている。
胸で反芻すると、ぶわりと頬に熱が集まった。両手で口許を覆い、陽子は榻に倒れこむ。先日はあんなに意地悪だったのに、何を言っているのだろう。その一言を、耳許で囁かれたような気がした。陽子は絶句して眼を閉じる。心臓が、驚くほど大きな音を立てていた。
どのくらいそうしていただろう。漸く落ち着いた陽子はゆっくりと身体を起こす。そして、卓子の縁に留まったままの鸞に眼を遣った。ごめんね、と小さく呟いて、鸞に銀の粒を与える。餌を美味しそうに食べる鸞を見つめ、陽子は事の起こりを思い出していた。
眉間に皺を寄せ、口許を引き結んで仕事に没頭する。そんな陽子に茶杯を差し出しながら、祥瓊が深い溜息をついた。
「――連絡してみればいいのに」
そんなに苛々されると周りが迷惑する。有能な側近は真っ当な諫言をした。心を読んだようなその諌めに、陽子は、そんな暇はない、と首を横に振る。確かに仕事は山積みだ。けれど、それだけが理由ではない。
風を名乗る我が伴侶はいつも気儘に現れる。その行動は奔放で縛れるものではないし、束縛する気もなかった。思い出したときにでも来てくれれば。そう思っていたのに、しばらく顔を見られないとやはり不安になる。最近は呼びつけられて訪問しても留守だったりと、真面に相対してくれないのだ。煩悶は深まるが、それを言葉にして伝えることはできなかった。
「会いたい、と一言告げるだけでいいと思うわよ」
祥瓊はにっこりと美しい笑みを見せた。そんなことを言えるはずがない。陽子は唇を尖らせる。祥瓊は苦笑を浮かべて陽子の頭をくしゃりと撫でた。その夜、自室に鸞が用意されていたのだった。
さあ、なんでもお伝えしますよ。
自ら言葉を話すことはない鸞にそう言われたような気がする。卓子の縁に留まって待機する鸞を前に、陽子はうろうろと歩き回るのみ。何を言えばよいのだろう。祥瓊の言葉を思い出しては頭に血が上って首を横に振る。そんなことを繰り返していた。
会いたい。
そう素直に告げることはできなかった。だから、訊きたいことがあるので時間があるときにでも寄ってほしい、と語ったのだ。そうして帰ってきた鸞の言葉を勢い込んで聞いてみれば。
「訊きたいことがあるならば、直接訊きに来るがよかろう」
意地の悪い声がそう告げて、ご丁寧に日時までも指定してきたのだ。いつものことながら傲岸不遜な言い様に、陽子は唇を噛んで拳を握る。何度も深呼吸をし、心を落ち着けてから鸞に銀を与え、腕に乗せて語りかけた。まず漏れたのは溜息だが、それは仕方ないだろう。
「――ふう。分かりました。けれど」
陽子は一度言葉を切る。沸騰しそうな頭を宥めると、声が驚くほど低くなった。
「必ず玄英宮にいてくださいね。今度留守にしていたら、二度と雁には行きません」
言い終えてすぐに自ら鸞を雲海の下に放つ。仕事を奪われた二声氏が物言いたげな眼で見つめていたが、一瞥すると慌てて頭を下げて去った。陽子はその後、猛然と決裁済みの書簡の山を作ったのだった。
そんな経緯だっただけに、此度の返信は驚きだ。信じられない気持ちでもう一度聞いてみる。餌を食べ終わった鸞は伴侶の優しい声を再び伝えた。陽子は頬を緩める。そして鸞にもう一粒銀を与えた。
翌日、機嫌を直した陽子に祥瓊は喜び、景麒は驚いていた。雁に行きたい、と告げる度に難色を示す半身は今回も渋い顔をする。いつもは味方してくれる冢宰さえも笑みを湛えて仕事を山と積んだ。陽子は肩を落として途方に暮れる。しかし、女史は力強く告げた。
「楽しいことは難しいことを乗り越えてこそ得られるのよ!」
頑張って、とにっこり笑んで、祥瓊は陽子の肩を叩く。そして、後でお茶を届ける、と言い置いて出ていってしまった。陽子は情けない貌で溜息をつくと筆を取り上げる。ひとつ深呼吸をして書簡の山を崩し始めた。
堆く積まれた案件がなくなったのは、出かける前日のことだった。終わった、と呻いて陽子は筆を置く。そのまま書卓に突っ伏すと、軽やかな笑い声がした。
「お疲れさま」
湯気の立つ茶杯と甘味を載せた盆を持つ祥瓊が楽しげに笑んでいる。陽子は力なく頷くと、差し入れの菓子に手を伸ばした。甘いものは疲れた身体を癒す。そんな陽子に祥瓊は、後は任せて、と微笑んだ。
祥瓊に後事を託した陽子は私室に戻り出かける準備を済ませる。床に就いてもなかなか眠気は来なかった。遠足前の子供のようだ。そう思い陽子は苦笑した。明日になれば伴侶に会える。逸る想いを抱きつつ陽子は眼を閉じた。
翌日、皆の見送りを受けて陽子は旅立った。班渠は蒼穹を軽々と駆ける。季節は晩夏から初秋に移るところ。しかし、今回ばかりは自国の美しい景色も陽子の眼に映ることはなかったのだった。
雁州国王都関弓、延王の住まう玄英宮には少し早めに到着した。出迎える門卒に笑みを向け、陽子はそのまま国主の執務室に向かう。少し緊張しながら堂室に入ると、宮の主と宰輔が揃っていた。
「――さすがにいらっしゃいましたね」
「これから出るところだ」
間髪を入れず返された答えに陽子は眉を顰める。手早く決裁済みらしい書簡を纏めた延王尚隆は慌てる延麒六太を無視して陽子の手を取った。陽子は大きく眼を瞠る。
「さて、行くか」
にっこりと笑んだ伴侶は驚く陽子に構わず手を引いたまま歩き出す。やれやれ、という六太の大きな呟きが二人を送ったのだった。
あれよあれよという間に来たばかりの禁門へ逆戻りした。さっさと乗騎で飛び立つ伴侶の後を、陽子は呆れ顔で続く。騎獣の代わりをする班渠は楽しげに笑っていた。
隣国は既に秋が深まっていた。伴侶は色鮮やかな紅葉を見せる山に騎獣を下ろす。見事な錦の衣に陽子は感嘆の溜息をついた。しばし観楓を楽しみ、伴侶は太い樹の前に腰を降ろす。大きな手に肩を引き寄せられて、陽子は苦笑を浮かべた。
「――まったく。勘弁してほしい。景麒はなかなかいいと言わないし、浩瀚には書類を山と積まれたよ。大変だったんだから」
言っているうちに此度の苦労を思い出してしまい、陽子は伴侶を睨めつける。そうか、と伴侶は笑うばかりだった。仕事に追われた怒涛の日々が嘘のよう。肩の力が抜けた陽子はどっと押し寄せる眠気に欠伸を噛み殺す。伴侶の左肩に凭せ掛けていた頭が軽く撫でられた。と思うとそのまま膝に載せられる。陽子は慌てて身を起こしかけた。しかし。
「少し眠れ」
陽子を制し、低い声が優しく響く。でも、と言いかけた唇を指で塞がれた。頬を撫でる大きな手は温かい。陽子は小さく溜息をつくと眼を閉じた。
伴侶の膝枕は意外にも心地よい。驚きながらも眠気に身を任せると意識はすぐに暗くなる。温かな手と低い声が子守唄のようだった。
2019.09.01.
短編「休息」をお送りいたしました。
御題其の二百五十九「隣国の鸞」陽子視点でございます。
初筆は18.12.02.でございました。
書いたことすらしばらく忘れておりましたのは恥ずかしかったからでございましょう(苦笑)。
この長さの作品を書き上げたのは久しぶりでございます。
楽しんで仕上げましたので、皆さまにもお楽しみいただけると幸いでございます。
十四周年ありがとうございました!
2019.09.01. 速世未生 記