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藤谷明日香さま「5万打記念リクエスト」

観 楓かんぷう

* * *  1  * * *

「──班渠」
「ここに」
 国主景王の苛々とした声に、宰輔景麒の使令である班渠は足許から応えを返した。気晴らしのお忍びに違いない。最近の女王は、金波宮に詰めきりで仕事をしていたのだから。
「堯天へ行く」
「お供いたします」
「──おや? 反対しないのか?」
 予想通りの命に、班渠は即答した。女王は怪訝な顔をし、小首を傾げて問う。
「反対されたいですか?」
「いや……そうじゃないけど」
 探るように班渠を見る女王は、悪戯を見逃された子供のような貌を見せる。班渠は澄まして問い返した。
「それで主上……行き先は堯天でよろしいのですか?」
「──含みのある言い方だな」
「ご命令いただければ、どこへでもまいりますよ」
 不敵に笑う女王に、班渠は笑い含みの応えを返す。女王は大きく笑い、それから、悪戯っぽく続けた。
「──お前も言うなぁ、班渠。じゃあ、関弓へ」
「畏まりまして」
 女王の伴侶である隣国の王は、最近とんと姿を見せない。主は密かに上機嫌であったが、女王のご機嫌はどんどん斜めになっていた。側近であり、友でもある女史と女御が溜息をつくほどに。
 女王が無茶を言うときは諫めるように、と主は班渠に命じている。普段であれば、無論班渠もお忍びに諫言を厭わない。しかし、さすがに女王を気の毒に思っていたのだ。
 鮮やかな紅の女王には、いつも晴々とした笑みを浮かべていてほしい。それは、金波宮に伺候する全ての者の願いであろう。女王は、慶東国を照らす輝ける太陽なのだから。
「──関弓に行くなら、も少し荷物が必要かな。班渠、少し待ってて」
「いつまでもお待ちいたしますよ」
「お前がそんなに従順だと、なんだか後が怖いな……」
 女王は片眉を上げてそう言い、楽しげに破顔した。それは女王の伴侶を思い出させる貌だ。班渠は忍びやかに笑う。既に踵を返していた女王にはその笑い声は聞こえないようだった。
 やがて、旅支度を終えた女王が、満面に笑みを浮かべて戻ってきた。難なく路門を抜けた女王を背に乗せ、班渠はふわりと舞い上がった。

 高岫山を超えて雁に入ると、冷たい風が吹きぬけた。雁はもうすっかり秋なんだな、と女王が呟いた。見下ろすと、緑が色褪せ、紅葉しかかっている。
「わぁ、綺麗……」
 ほう、と女王は溜息をつき、その身に纏っていた緊張を解く。それは、春の桜花を楽しむときと同様の素直な感嘆だった。伴侶とともに見たい──そんな心の声が聞こえたような気がして、班渠は女王に声をかけた。
「紅葉を愛でるのも、たまにはよろしいのでは?」
「それはいい考えだな」
 女王は班渠の提案に笑みをほころばす。そして楽しげに続けた。
「じゃあ、関弓の近くで紅葉が綺麗なところを探しながら行ってくれるか?」
「畏まりまして」

* * *  2  * * *

 班渠は紅の女王を乗せて玄英宮の禁門前に降り立つ。鮮やかな緋色の髪を見紛う者はいない。班渠から降りた女王の前に、門卒たちは一斉に額ずく。班渠は女王の足許に身を沈めた。
「景女王、ようこそいらせられました」
「延王はおられるか?」
「はい、それが……」
 恭しく拱手したまま、案内の下官は口籠る。女王は、どうせお遊びが過ぎて溜まった仕事に埋もれているのだろう、と笑った。そして、案内の者を返し、延王の執務室に向かった。
 扉を軽く叩き、女王は堂室に足を踏み入れる。延王は顔を上げ、女王の姿を認めると破顔した。
「延王、お久しぶりです」
「──陽子。お前が来るなど、珍しいな」
「まったく、そんなに仕事が溜まるほど、お留守にされていたんですか?」
 延王の書卓に堆く積まれた書簡を見て、女王は溜息をつく。延王は女王の揶揄に嫌な顔を返した。
「いつも遊んでいるわけではないぞ、視察に行っていただけだ」
「本当ですか?」
「いつからそんなに疑り深くなったのだ? その証拠に、見張りがいないだろう」
「そういえばそうですね」
 同意すると、女王は遠慮なく大笑いした。軽口を叩きながらも、延王はどんどん仕事を進めている。女王が現れてから、延王の書簡を捌く速度が上がったように感じる。それは、班渠の気のせいではないだろう。
 女王は勝手知ったる伴侶の執務室にて、慣れた手つきで茶を淹れる。二人分の茶器に温かな湯気が立つ頃には、延王の書卓に積まれた書簡はほぼ片付いていた。
「おやまあ。いつもそれくらい本気をお出しになれば、臣も助かるでしょうにね」
 女王は呆れ顔で茶を差し出す。延王は口の端で笑い、女王の淹れた茶を美味しそうに飲んだ。
「お前の淹れる茶は美味いな」
「それは光栄至極」
 女王は優雅に拱手し、笑みをほころばせる。それから悪戯めいた口調で延王を促した。
「人心地ついたら出かけましょう」
「どこへだ?」
「紅葉狩りです」
 女王はにっこりと笑んでそう告げる。延王は片眉を上げて、ほう、と返し、にやりと笑った。

* * *  3  * * *

 真っ赤に燃える紅葉の中でも、ひときわ美しい色を見せる木の下に、班渠は静かに降り立った。騶虞すうぐに跨ったまま、延王は、これは見事だ、と感嘆する。女王は玄英宮では見せない摧けた口調とともに、鮮やかな笑みを返す。
「ね、綺麗でしょ。あなたに見せたかったんだ」
「たまには拉致されるのもよいものだ」
「──人聞きの悪いことを」
 眉を顰める女王に、延王は呵呵大笑する。そして、騶虞から飛び降り、女王の横に立って見事な紅葉を見上げた。
「班渠が見つけてくれたんだよ」
「──主上の御為でございますから」
 班渠は少し得意げな女王の前に頭を垂れ、恭しく応えを返した。その裏に潜む棘を感じたのか、隣国の王はさも可笑しそうに肩を揺らす。面白げに笑う女王の伴侶に、班渠は視線を投げた。延王は人の悪い笑みを班渠に向ける。
「お前の主の御為にはならないと思うがな」
「主上が健やかにおられることこそが、我が主の御為にもなりますから」
 そんな揶揄に、班渠は澄まして応えを返す。延王はくつくつと笑い、不思議そうに見上げる女王の肩を抱いた。
「──お前が鮮やかな紅葉に紛れてしまわないよう、しっかりと見張らねばな」
「いったい何の話をしているの?」
 どこまでも純粋な我が女王は小首を傾げて訊ねる。延王は愛おしげな顔で伴侶を見つめ、耳許で囁いた。
「お前は、その名のとおり、並ぶものなき輝かしい太陽だ、ということだ」
 告げられて女王はさっと頬を朱に染める。鮮やかに美しい紅葉に引けを取らない麗しき紅の女王を、延王は眩しげに見つめる。
尚隆なおたか……紅葉はあっちだよ」
 真っ赤な顔で素っ頓狂な声を上げる女王に、延王は小さく溜息をつく。そして、大きな肩を窄めて班渠に片目を瞑ってみせた。班渠はくつくつと笑い、そっと女王に告げる。
「──観楓とは紅葉を見ることだけではないのですよ、主上」
 延王にとっては、ですが、と班渠は付け加える。お前もだろう、と延王尚隆は嫌そうな視線を班渠に向ける。
「お前の眉間の皺を消す手助けができて、俺も嬉しいぞ」
 隣国の王は女王に笑みを向けつつ、班渠を揶揄することを忘れない。しかし、班渠はそれを気にもしなかった。麗しき女王は、延王と班渠を見比べて、美しい紅葉よりも鮮やかに笑う。その笑みは、何よりも班渠を幸せな気持ちにするのだった。

2006.12.12.
 「50000打」リクエスト、短編「観楓」をお届けいたしました。 御題は「班渠視点のお話」。
 「ちっとも訪れてくれない尚隆に業を煮やした陽子が、班渠に乗って玄英宮に 押しかけ、謝る尚隆と、紅葉を見に行く、とか」とコメントをいただきました。
 明日香さま、紅葉の季節を外してしまったかもしれません! 遅くなってごめんなさい〜。 しかも、うちの尚隆は謝りませんでしたね!
 けれど、班渠視点の陽子と尚隆は、なかなか新鮮でございました。 そして、班渠と尚隆のプチ対決も楽しく書くことができました。ありがとうございます〜。 お気に召していただけると嬉しいです。

2006.12.12. 速世未生 記
 
背景画像「工房 雪月華」さま
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