煌 煌
北国の真冬の美しさに魅せられて、幾年が過ぎただろう。陽子は今年も厳冬の雁を訪れた。そして、冷え込みの厳しいこの時季でも滅多にない寒波を体験したのだった。
「――さすがにこんなに寒いのは初めてだ」
純白の雪花ほころぶ冬の木立を眺めながら、陽子は感嘆の溜息をつく。その息さえも、たちどころに凍って落ちそうな寒気だ。思い切り息を吸うと咳き込みそうだった。
「今年は久々に寒い。国主が失道しかけているやもしれぬな」
北の大国の王は、他人事のように物騒なことを言ってのける。陽子はすぐさま己の伴侶でもある隣国の王を見上げ、思い切り顔を蹙めてみせた。そんな陽子に笑みを返し、延王尚隆は手を伸ばす。そうして陽子の手を引いた伴侶は、楽しげに慣れた道程を歩くのだった。
陽が落ちると、寒さは一段と厳しくなった。暖炉の炎は激しく燃え上がっているのに、小屋の温度はどんどん下がっていく。火の傍から離れられないほどであった。それでも陽子は寒さを押して立ち上がり、窓辺に歩み寄る。窓の玻璃はびっしりと霜が貼りつき、真っ白になっていた。
「――これじゃ、雪明りは見えないな」
寒い夜には空の星が煌めいて、雪原を美しく照らし出す。昔、風呂上がりに外に出て、生乾きの髪を一瞬で凍らせてしまったことがあった。けれど、雪明りは、そんなことをも忘れさせるほど綺麗だったのだ。その後、陽子は伴侶にたっぷりと叱られた。いくらお前でも凍死するぞ、と。
それ以来、無防備に外に出ることは自重している。けれど、中から眺める分にはいいはず。陽子は少し肩を竦め、気軽に窓に手を伸ばした。凍って開きにくい窓は、力を強めた陽子の手で勢いよく開かれる。その途端、凍てつく空気がどっと雪崩落ち、陽子は小さく悲鳴を上げた。
昼とは比べ物にならない凍気が陽子の頬を強かに打つ。足許に積もる冷気が身体を覆いつくしてしまいそうだった。それでも、降り注ぐ星々の煌めきに雪原は青白く輝き、陽子を魅了した。
窓を閉めたのは、もちろん尚隆だ。動けずにいた陽子の肩を叩いた伴侶は、苦笑を隠すことなかった。
「こんな夜に窓を開けるなど、無謀過ぎる」
「だって、雪明りは中から見るものなのでしょう?」
外へ出るよりはましだろう、と思っただけなのに、やはりお小言を喰らってしまった。陽子は唇を尖らせて横を向く。尚隆はくすりと笑い、笑い含みに意味深な科白を吐いた。
「今宵の星と雪も綺麗だが、この分では、明日にはもっと綺麗なものが見られるぞ」
「え、何?」
陽子は伴侶に目を戻した。この雪明りよりももっと綺麗なものとはいったい何だろう。期待に胸が高鳴っていく。しかし、伴侶は意地の悪い笑みを浮かべた。
「それは明日のお楽しみだ。今日は俺を楽しませろ」
そう言って、伴侶は陽子を引き寄せる。温かな腕に抱きしめられて、見る間に頬が熱くなっていく。朱に染まる頬を伴侶の胸につけて隠し、陽子は小さく頷いた。
寒さをも忘れさせる甘い夜は、瞬く間に過ぎ去る。気づけば空が白み始めていた。冬の陽が淡い光を放ち、ゆっくりと昇っていく。夜が明けた。陽子は期待に満ちた目で伴侶を見つめた。
「――そう焦るな」
一言そう言って、伴侶は殊更にゆっくりと起き上がる。こうなると、このひとはほんとうに譲らない。陽子は逸る気持ちを抑え、伴侶と二人で朝食の準備をした。簡素だが温かな朝餉を食す。他愛ない会話を交わしながらも、陽子の心は外へと向かうのだった。やがて。
「――さて」
尚隆はおもむろに口を開いた。支度をしよう、と言われる前に、陽子は勢いよく立ち上がり、褞袍を手に取った。はたして伴侶は苦笑する。が、注意を怠ることはなかった。
「外は今までになく寒いはずだ。しっかり着込めよ」
「分かった」
陽子は素直に頷いた。小屋の中でさえ、これほど寒いのだ。外の寒気は想像を逸しているのだろう。
褞袍を纏い、襟巻をし、帽子を被り、手袋を嵌め、完全防備で外に出る。帽子で耳を隠し、襟巻で頬を覆ってさえも、凍えた外気は僅かに露出する肌を鋭く刺した。けれど。
淡く照らす朝陽の下、真っ新な雪に覆われた野原は白銀に輝いている。きらきら眩しい雪原の美しさは、陽子に声を上げることすら忘れさせた。陽子は我知らず溜息をついた。
唇から洩れた息が宙を白くたゆたう。そちらに目を移すと、透きとおるような仄白い青空があった。甘さのない冬の空は、近寄りがたい女神のように美しい。自国とは全く違うその色に、陽子は感嘆を惜しまなかった。そんなとき。
目の前で、何かが光った。陽子は少し首を傾げ、目を凝らす。白銀に輝く雪原の上、凍てつく空気が煌めいていた。もしかして。
「気づいたか」
伴侶が陽子を見て破顔した。ああ、これが雪明りよりももっと綺麗なものなのか。陽子は目を見張り、納得して唇を緩めた。名前だけは聞いたことがある、蓬莱でも北国では見られるという美しい現象。
「ダイヤモンド・ダスト……」
「だいやもんど・だすと?」
伴侶は片眉を上げ、訝しげに聞き返す。もしかして、翻訳されてしまったのかもしれない。そう気づき、陽子は伴侶に笑みを見せた。
「あちらでも寒い地域では見られる現象なんだ。ダイヤモンド・ダストっていう。初めて見た」
「なるほど」
「翻訳されるって便利だけどちょっと厄介だね」
そう言いながら、陽子は凍てつく空に目を戻す。淡い陽に照らされて、辺りはダイヤモンドの屑を撒き散らしたように煌めいている。初めて目にする美しい光景を、陽子はうっとりと眺めるのだった。
「さて、お前ならこれに何と名をつける?」
不意に伴侶が笑いを含んだ声で問いかけた。陽子はしばし考える。ダイヤモンド・ダストという言葉は、こちらの世界には似つかわしくないだろう。そう思う間にも、凍気はきらきらと瞬く。陽子はにっこり笑って伴侶を見上げた。
「きらきら、だね。ほんとうにきらきらして綺麗だから」
そうか、と伴侶は優しい笑みを見せる。そんな伴侶に寄り添い、陽子は心ゆくまで美しい煌めきを楽しんだのだった。
2012.02.19.
小品「煌煌」をお届けいたしました。
御題其の百七十六「きらきら」の陽子視点となります。
絵を描きたいなと思いました。けれど、やはり無理でした(苦笑)。
というわけで、冬の情景を私なりにスケッチしてみました。
冬の北国の美しさをお伝えできれば本望でございます。
今回読み仮名は決めておりません。
お好きに読んでくださいませ。
2012.02.19. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま