TRcatさま「13打記念リクエスト」
想 望
真冬の休暇は呆気なく終わってしまった。玄英宮掌客殿に用意された堂室に戻り、独りになった景王陽子は深い溜息をつく。
慣れぬ襦裙を着付けられて戸惑う女王に、先導した女官は手早く茶を淹れて退出した。茶杯から上がる湯気を見つめ、陽子は楽しかった旅を反芻する。
一面の銀世界。背の高い針葉樹。牛がいる廬。窓に玻璃が入った民家。晴れていながら仄白い空。夜闇に浮かび上がる美しい雪明り。寒いときにしか聞こえないという可愛い雪鳴り。容赦ない吹雪。そして、その吹雪に呑まれてなくなってしまう小道──。
そんなふうに、厳冬の北国には陽子の知らないものが沢山あった。しかも、冬の長い夜は、陽の光の中では見えないものをも露にしたのだ。
暖炉で昏く燃える燠火が照らし出したもの。それは、愛するひとの、いつもと違う、男の眼差し。
深い色を湛えた伴侶の双眸に、まだ見つめられているような気がした。陽子は思わず目を閉じ、身を震わせる。残り火が燃え上がり、我知らず甘い吐息が漏れた。
あのひとは、私の知らない私を見つめている──。
陽子はゆっくりと目を開けて立ち上がった。そして鏡を覗きこむ。そこには、見慣れた自分の顔があった。いや、やっと見慣れた、というべきか。陽子は自嘲の笑みを浮かべる。すると鏡の向こうから、薄く笑う陽子が陽子を見つめ返した。己はこんな貌をするのか、と少し驚いた。
そう、鏡を使わなければ、自分の顔など見ることはできないのだ。陽子は鏡に映る己の頬に手を伸ばす。指先に伝わるのは、鏡面の冷たい感触。けれど。
(陽子……)
伴侶の囁きが胸に響く。その途端、昨夜の熱が蘇り、目眩がした。鏡に映る己の顔は、男の貌をした伴侶に取って代わる。
「──尚隆」
伴侶の名を呟き、陽子は己の肩を抱く。いつも優しく温かい伴侶が見せた、陽子の知らぬ、男の双眸。
(──怖い俺も知っておけ)
愛おしげに囁いて、陽子を押し倒した伴侶。烈しく求められ、その炎のような情熱に身も心も焦がされた。そして──陽子は己の知らぬ「女」を暴かれた。
もう一度、鏡に映る己の姿を眺めた。着慣れぬ襦裙を着せられて戸惑う小娘が映っている。それでも、この小娘は、延王尚隆が求めるものを秘めているのだ。
「──お前は、必要とされているんだよ」
子供に言い聞かせるように呟くと、鏡の中の陽子が照れたように頷いた。今日はこのまま伴侶を迎えよう。そう思うだけで、見る間に頬が赤くなる。恥ずかしさに耐えられず、陽子は鏡の前から逃げ出した。
そのまま榻に腰かけて少し冷めた茶を飲み干し、陽子は伴侶の訪れを待った。新たに茶を淹れようと立ち上がりかけ、慣れない襦裙の動きにくさに負けてまた腰を下ろす。
待つ時間とは、こんなに所在ないものだったろうか。
陽子は深い溜息をつく。時間が経つにつれて、緊張が高まっていく。あのひとは、ほんとうに来てくれるだろうか。そんな不安すら湧き上がる。
陽子は力なく首を振る。伴侶に必要とされている、と思ったばかりだというのに。心弱い己に、またひとつ溜息を零した。そんなことを繰り返すうちに、夜はどんどん更けていった。
やがて扉がそっと開いた。心臓がひときわ高く鳴り響く。陽子は立ち上がり、緊張気味に伴侶を迎えた。
「──ゆっくり休めたか」
伴侶は途中で足を止め、そう問うた。忙しない鼓動の音が聞こえてしまったのだろうか。そんな不安に駆られ、陽子は黙して頷く。すると、薄く笑った伴侶は陽子に触れず、そのまま榻に腰かけた。
「どう……したの……?」
いつも、優しく、或いは熱く、陽子を抱きしめてくれる伴侶なのに。陽子は泣きそうになりながら伴侶を見下ろす。昨日、子供っぽいところを見せたから、呆れられたのだろうか。それとも──。
「──妖魔にでも喰われそうな子供のようだぞ」
片眉を上げた伴侶は、楽しげに揶揄する。緊張を見透かされている。陽子は思わず、いつまでも子供じゃない、と返した。
伴侶はくつくつと笑い、立ち上がった。いつもよりもゆっくりと伸ばされる指が、陽子の肩に触れる。我知らず震えが走り、息を呑んだ。髪に挿された歩揺が、声を殺した陽子の代わりに音を立てる。伴侶はすぐに手を引き、唇を歪めて笑った。
「──ほら。怖いのだろう?」
「ううん、怖くない……」
それは嘘ではない。ただ、己の知らぬ己を見せられるのが怖いだけ。けれど、それが伴侶の求める陽子ならば。想いを籠めて伴侶を見つめ、陽子は震える身体を広い胸に押しつけた。
伴侶は無理するなと言いつつも、陽子を優しく抱きしめる。背を、髪を撫で、伴侶は低く笑いを漏らした。陽子が真面目になればなるほど、伴侶は陽子を面白がる。いつものことながら、少し腹が立った。陽子は頭を擡げ、伴侶を睨めつける。
「──何がそんなに可笑しいの?」
「お前といると、退屈することがない」
低い声は遠慮のない笑いに取って代わる。揶揄めいた言葉に、陽子はさっと頬を朱に染めた。伴侶は人の悪い顔を見せ、不意に陽子を抱き上げる。
「──震えは止まったようだな」
「意地悪……」
言われるまでもなく、緊張は解れていた。また、いいように振り回されてしまった。悔し紛れに悪態をつく。が、甘く唇を塞がれて、それ以上伴侶を責めることはできなかった。そして伴侶はいつものようにさっさと臥室へ向かう。
そっと牀に横たえられた。陽子を覗きこむ双眸は、深い色を湛えている。陽子を惹きつけて已まぬ、光と闇をを併せ持つ瞳。その眼差しは、唇よりも饒舌に伴侶の想いを語り、陽子を虜にする。
このひとには敵わない。
陽子は苦笑を浮かべ、嘆息する。伴侶は楽しげに笑い、口づけの雨を降らせた。それはこのひとが決して言葉にしない、熱く優しい問いかけ。陽子は微笑んで頷く。
あなたが好き。あなたは私の憧れ。いつか、その背に追いつきたい。けれど──。
今は、何も考えずに、この胸に、全てを預けよう。
愛してる。
口に出せない想いを載せて、陽子は伴侶の首に熱くなる腕を絡めた。
2008.06.10.
TRcatさまによる
「13万打記念リクエスト」をお送りいたしました。
お題は「尚隆×陽子であれば何でもOK」でございました。
お言葉に甘えて、長編「燠火」余話を書かせていただきました。
オマケ拍手「乙女の呟き」〜「旅後の語らい」を纏めた作品で、
「燠火」最終回20章の陽子視点でございます。
物凄く季節外れで申し訳もございません。
けれど、どうしても書いておきたいお話でございました。
お気に召していただけると嬉しく思います。
2008.07.11. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま