逍 遥
「紅葉狩りに行くぞ」
静謐な国主の執務室に明朗な声が響き、景王陽子ははっと顔を上げる。突然現れた隣国の王が扉に凭れ、にやりと笑んでいた。陽子は深い溜息をつく。書卓の上には案件が山積みだ。いくら賓客が所望したといって、これを置いて出かけることなど不可能だ。
「――この山が目に入りませんか」
無理です、と言い終える前に、距離を詰めた客人の指が陽子の唇を塞ぐ。気儘な大国の王は、そのまま陽子を立たせ、手を引いてすたすたと歩き始めた。陽子は慌てて口を開く。
「延王……!」
「しばらく見ていたが、書簡の高さはほとんど変わっていない。能率が落ちているのだろう。気分転換した方がよい」
「――! いつから見ていたのです」
儚い抵抗は理詰めで封じられた。陽子は悪態をついて唇を尖らせる。足を止めずに振り返った伴侶は人の悪い笑みを浮かべていた。
「気づかなかったのか」
そういえば、扉が開く音がしなかった。このひとは気配を殺して陽子を観察していたのかもしれない。そういう悪戯は得意なひとだから。尚も言い募ろうとしたそのとき、足許から低い笑い声が響く。陽子は顔を蹙めて声を荒げた。
「班渠!」
「失礼仕りました」
殊勝な言葉とは裏腹に、班渠は笑い含みに応えを返す。無駄な抵抗はお止めなさい。姿を見せぬ使令に、そう諭されたような気がした。陽子は無言で頬を膨らませる。見下ろす賓客は、楽しげに眼を細め、満足したように頷いた。
* * * * * *
班渠の背から見下ろす下界の樹々は、すっかり錦の衣を纏っていた。雲海の上にいては分からないその変化。陽子は眼を丸くした。いや、宮の庭院に樹がないわけではない。外を眺める心の余裕がなかったのだ。改めてそう気づき、陽子は苦笑を禁じ得なかった。視線を移すと、少し先を行く伴侶が見える。その横顔は、いつもの如く飄々とした笑みを浮かべていた。
街を離れてしばらく経った頃、伴侶はゆっくりと高度を下げた。どうやら目的地に到着したらしい。ひときわ美しい紅葉に思わず唇がほころびる。陽子の心は書卓に積まれた案件の山から解放され、すっかり穏やかさを取り戻していた。
見事な紅葉を見せる林の中に降り立つ。足許には鮮やかな黄赤の絨毯が広がり、陽子の目を存分に楽しませた。そして、風が吹く度に紅い葉が乾いた音を立てながら舞い降る。それはまるで春の桜吹雪のようで、陽子は歓声を上げた。
「うわあ、綺麗!」
「色がよいうちに見せてやれてよかった」
そう答え、伴侶は優しい笑みを見せた。陽子は意味が分からず首を傾げる。伴侶は足許に視線を移し、楽しげに応えを返した。
「雪が降る頃には、朽ち葉色に変わっているからな。そうやって落ち葉は土になっていくのだ」
陽子は納得して頷いた。今はこれほど鮮やかな黄赤の葉も、時が経てば枯葉となる。当たり前だが意識したことはなかった。そして気づく。落ち葉などあまり目にすることがなかった、と。
宮には庭師がいて、いつも手を入れている。美しい紅葉の絨毯も、色が悪くなる前に片付けられているのだろう。
そういえば、陽子はあまり朽ち葉を見た覚えがない。ふと生まれ育った蓬莱が心に浮かぶ。アスファルトに覆われた道路、整然と植えられた街路樹。街を彩る樹々も当然落葉していただろうに。
扇形の葉を美しい黄色に染め上げる銀杏の樹。小さい頃は綺麗な落ち葉を拾って宝物にしたこともある。それはきっと、こんなふうに積もった様を見たことがなかったからなのかもしれない。陽子は足許に広がる黄赤の絨毯をじっと見つめる。そして、感慨が溢れでるままに言葉を紡いだ。
「──ここでは、落ち葉は土になることができるんだね」
「そんなに珍しいことか?」
伴侶は片眉を上げて訝しげに問うた。同じ胎果だが、陽子より五百年早く生まれた伴侶は、舗装された道路を知らない。陽子は薄く笑み、応えを返した。
「蓬莱では、道に落ちた葉は、不要なものとして処分されていたから」
そう、落葉は、早々に掃き清められる。あちらではそれがごく当たり前な光景で、疑問に思うことなどなかった。
陽子の呟きを聞いた伴侶は僅かに眼を瞠った。そのまま黙してゆっくりと遠くを見つめる。その横顔を見やり、陽子ははっとした。
このひともまた、陽子がいた蓬莱を知る者なのだ――。
泰麒捜索の折、延王尚隆は、こちらからあちらへと渡って泰麒を連れ戻した。陽子が住んでいた時代の蓬莱を垣間見たひとは、やがて静かに腕を伸ばす。そして、何も言わずに陽子の肩を抱いた。いつになく生真面目な貌を向ける伴侶に、陽子は淡く笑みを返す。
伴侶はいつも陽子の知らないものを見せてくれる。それだけでなく、陽子の眼に映るものを見ようとしてくれる。今ここで、同じ時を過ごし、同じ物を見る。離れて暮らすからこそ、このひとときがこんなにも愛おしい。陽子はそっと伴侶の厚い胸に身を寄せた。
言葉はいらない。
視線を合わせ、微笑みを分かちあう。それから、陽子は鮮やかな落ち葉の絨毯に視線を移した。伴侶とともに歩き出す。そして、ゆったりと秋の逍遥を楽しんだ。
2015.02.06.
久々の更新でございます。
御題其の其の百二十九「秋の情景」の陽子視点になります。
実は12月に出したかった秋のお話でございました。
今回、萌えをいただきましたので仕上げてみました。
季節外れでごめんなさいね。
そして、28万打ありがとうございました!
(いつの話……/苦笑)
2015.02.06. 速世未生 記