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彦 星

 友たちが用意してくれた短冊に、想いを籠めて秘めた願いを認めた。他の誰も読めない横文字で。

wish you came to here …

 あなたにここに来てほしい……。

 それは、決して叶うことのない願い。陽子は深い溜息をつき、軽く首を振った。せめて、あのひとの夢を見られますように。
 切ない想いは短冊が昇華してくれた。だから、陽子は笑顔で日々を過ごすことができたのだ。まさかその願いが本当になるとは思いもしなかった。
 七夕の夜、露台で笹と空を眺めていた陽子は、駆けてくる騎獣を見つけて瞠目した。目の前に降り立つ恋しい彦星を声なく見つめるばかりだった。伴侶はそんな陽子を揶揄しつつも優しく抱きしめてくれたのだった。

* * *    * * *

 ふと目が覚めると、辺りが明るくなっていた。隣で眠ったはずの伴侶がいない。あれは、夢、だったのだろうか。陽子は切ない溜息をつきつつ手を伸ばす。牀は仄かに温かかった。一気に目が覚めて、陽子は飛び起きる。そして、急いで夜着を羽織って露台に走った。

 嫌な予感がする。

 はたして伴侶は露台に飾ってあった笹の傍に立っていた。その手が持っているもの。それを見た途端、陽子は悲鳴を上げた。
尚隆(なおたか)!」
 名を呼ばれた伴侶はゆっくりと振り返り、にこやかに笑う。大きな手が持つ短冊に小さな手を伸ばし、陽子は怒声を上げた。
「返して!」
 短冊を高く掲げた伴侶は動じない。余裕の笑みを見せたまま、陽子に軽く問うた。

「どうせ俺には読めぬのに、何故そんなに怒る?」

「──いいから返して!」
 読める読めないの問題ではないのだ。渡す気のない恋文を本人に見られるなど、陽子にとって耐えられることではない。いきり立つ陽子を見下ろす伴侶は、常の如く人の悪い笑みを浮かべた。

「どういう意味か教えてくれたら返してやる」

「絶対に教えない!」

 どうしてそう意地悪を言うのだろう。

 陽子の即答は、怒りのためか裏返った声になる。伴侶は更に意地の悪い貌で言ってのけた。

「では、分かる者のところへ持っていって訊くぞ。よいのか?」

「──!」
 陽子は息を呑む。誰も読めないはずの横文字を読める者が胸に浮かんだのだ。陽子は唇を噛んで俯いた。

 かつて慶に流れ着き、今は雁の庠序で教鞭を取る海客、壁落人。何も知らなかった陽子にも、親切に色々なことを教えてくれた人だ。

 壁先生にお礼をしたい。

 登極後、慶に落ち着いた陽子のそんな願いを叶えてくれたのは、雁の大学に進んだ楽俊だった。どこからかその話を聞きつけて。楽俊と同道したのが延王尚隆その人だったという。
 気紛れな王のお出ましにも驚かず、問いかけにもそつなく受け答え、王に気に入られて時々蓬莱のことを教えている。しかも、芳陵訪問の理由が、「陽子が世話になったから」。楽俊からそう聞かされた陽子は、呆れて物も言えなかった。
 陽子が世話になった恩人を困らせるのは止めてほしい。後日そう抗議した景王陽子に、延王尚隆は飄々と答えた。あの老師は別に困ってなどいなかった、と。陽子は二の句が継げなかった。

 陽子が頑なに答えを拒めば、尚隆は本当に壁落人の許へ行くだろう。日本の最高学府である東大に在学していた壁先生が、こんな簡単な英語を知らないはずがない。固く握った拳が震える。羞恥で頬が熱くなっていく。観念した陽子は、小さな声で呟いた。

「――あなたに、ここに来てほしい……」

 大きな身体を縮めた伴侶が陽子の顔を覗きこむ。陽子の潤んだ瞳が映す伴侶は、限りなく優しい笑みを浮かべていた。

「――どうやら彦星は織姫の願いを叶えられたようだな」

 低い囁きとともに強い腕が陽子を抱きしめる。閉じた瞳から零れた涙は、温かな唇がそっと拭ったのだった。

2016.08.09.
 何ゆえ今頃七夕……。はい、本日は旧暦の七夕でございます。 そしてこの「彦星」、短編「笹飾」続編で短編「織姫」第3章の陽子視点になります。
 何ゆえ8年も前の作品をまた……。 はい、今年の桜祭にて、漸く壁先生に会う尚隆を書いたものですからつい……(苦笑)。
 甘めの尚陽小品、お楽しみいただけると嬉しゅうございます。

2016.08.09. 速世未生 記
背景画像「深夜光房」さま
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