織 姫
* * * 1 * * *
爽やかな初夏の風が吹き抜けていた。ふらりと金波宮を訪れた延王尚隆は、宮の主がいる内殿の執務室へと向かう途中、女王の側近の出迎えを受けた。
「ようこそいらせられました、延王」
女王の友でもある女御と女史はそう言って頭を下げる。尚隆は唇を緩めて声をかけた。
「久しいな、鈴、祥瓊。金波宮の艶やかな花たちに揃って迎えられるとは、俺は果報者だな」
「まあ、相変わらずですね、延王」
「お口がお上手ですこと」
女御と女史は、尚隆の軽口にも動じない。それどころか、笑みを湛えて受け流す。美しいが頭の固い女王とは違う強かさに、尚隆はにやりと笑って二人に問うた。
「──で、俺に何用かな?」
「延王はまことにお話が早くていらっしゃる」
「ほんとうに助かりますわ」
鈴と祥瓊はにっこりと笑みを見せ、恭しく拱手した。言外に籠められた意味を察し、尚隆は笑いを堪える。そして、女王の側近が促すままに、生真面目で少し鈍い女王の目の届かない掌客殿の一室へと向かった。
「主上は、他人に知られたくないことは、横文字で書くんですよ」
茶菓子を取り分ける祥瓊が、楽しげにそう話す。興を覚えた尚隆は、鈴の差し出す茶を受け取りながら先を促した。
「横文字?」
「蓬莱の、異国の言葉なんですって」
女王の友たちは笑いさざめき、口々に語り出した。胎果の女王は、その異国の言葉を学校で習っていたそうなのだ。
「他の誰も読めないその文字を、主上は七夕の短冊にも書いていたんです」
「ですから、逆に、それがなんだか分かってしまうんですよ」
「七夕とは懐かしいな。しかし……」
短冊の意味が分からない、と尚隆は訊ねる。すると、鈴が笑みを湛えて応えを返した。陽子の時代、七夕には笹に願い事を記した五色の短冊を飾っていたのだという。言い終えてまた、鈴は祥瓊と顔を見合わせて笑みを零した。
「──なるほどな」
尚隆は人の悪い笑みを浮かべて頷く。短冊に書かれた願い事が何か、悪戯っぽく笑う伴侶の友たちの顔からすぐに知れたから。
かつて、七夕の夜に、独り空を見上げていた胎果の女王。蓬莱が恋しいのか、と訊ねた海客の女御に、景王陽子はこう答えたという。
(織姫と彦星がちゃんと会えたらいいなと思っただけ──)
今ならその理由が分かる。主の恋を知らされた後、女御は、そう言って主の伴侶に笑みを見せた。女王は、彦星を恋うる織姫のように、遠く離れて暮らす己が伴侶を想っていたのだ、と。
尚隆は嬉しい事実を教えてくれた女王の友に感謝した。しかし、女御はゆっくりと首を横に振り、礼を述べた尚隆に深々と頭を下げたのだ。主上の願いを叶えてくださってありがとうございます、と。
それは、尚隆にとって、今も忘れえぬ心温まる出来事であった。故に、尚隆は女王の友たちの願いを叶えることに異存はなかった。
「それで?」
尚隆の問いをを受けて、女王の秘密を明かした二人は、ずいと身を乗り出す。そして、声を潜めて主の伴侶を誘った。
「延王、主上のその横文字を」
「見てみたくはございませんか?」
「見てみたいな」
無論、尚隆はにやりと笑って即答した。二人はしたり顔で頷く。そして、声を揃えて望みを述べた。
「それでは、ご協力をお願いいたします」
恭しく頭を下げ、鈴と祥瓊は七夕の企画を打ち明ける。尚隆は破顔してその提案に耳を傾けた。
* * * 2 * * *
七夕の夜、延王尚隆は、満天の星空を見上げながら雲海の上を飛んだ。無論、こちらに織姫星と彦星があるわけではないのだか、空を見ると匂やかな笑顔が胸に浮かぶ。
我が伴侶は、彦星を想う織姫の如く、夜空を眺めているだろうか──。
女王の友人たちの提案を思い出し、尚隆はくつくつと笑う。喧しい半身が自由に出入りすることのない女王の私室に笹を立て、五色の短冊を用意して願い事を書かせるつもりだ、と二人は笑った。
(きっと、ほんとうの願いは横文字で書きますよ)
(楽しみにしていてくださいね)
尚隆は破顔して頷いた。すると、二人は安堵したように小さく息をついた。これで女王の眉間に刻まれた皺がなくなるとよいのだけれど、と。
昨年起きた謀反事件を機に、麒麟しか知る者のなかった秘めた恋を女王の側近に明かした。その後、生真面目な景王陽子はお忍びを自粛し、政務に励んだ。そして、尚隆が訪っても、以前と同じに振舞っていた。
恋に現を抜かしていると言われたくない。
そんな矜持が見え隠れしていた。それ故に、若き女王は肩に力が入っているようにも見えた。尚隆はそれを案じていたが、女王の友たちも同じように感じていたのだと思うと、笑みが漏れた。
(景王の眉間の皺を消す手伝いができて、光栄に思うぞ)
尚隆はおどけた応えを返した。すると、しんみりしていた女史と女御は、花ほころぶような笑みを見せて拱手したのだった。
やがて、雲海に浮かぶ孤島のような金波宮が見えてきた。尚隆は迷わず女王の居室へと向かう。伴侶の驚く顔を早く見たい。そう思うと気が急いた。
広い露台には、欄干から身を乗り出すようにして夜空を見上げる華奢な人影があった。その横で、沢山の短冊が吊るされた笹がさやさやと揺れている。尚隆は騎獣を露台に下ろし、笑い含みに声をかけた。
「──織姫に会いに来たぞ」
伴侶は星明りの下でも分かるほどに大きく目を見開いていた。尚隆は騎獣から降り、未だ固まったままの伴侶にもう一度声をかけた。
「──迷惑だったか?」
伴侶はびくりと肩を揺らし、激しく首を振る。声も出せぬほど驚いているらしい。それが分かり、尚隆は密かに安堵した。伴侶は絞り出すような声で問うた。
「どうして……?」
「今日は七夕ではないか」
だからお前は夜空を見上げていたのだろう、と尚隆は胸で呟く。そのまま伴侶の細い身体を引き寄せた。腕の中に収めても尚、伴侶は緊張を解かない。尚隆は苦笑気味にひとりごちた。
「──この織姫さまは、どうにも疑り深くて困るな」
「だって……織姫と彦星は、蓬莱のお話じゃないか……」
瞳を潤ませた伴侶は、くぐもった声で捻くれた応えを返す。若き女王のそんな素直でないところも可愛らしい。口に出してしまったら、きっと怒るのだろうと思いつつ、尚隆は鷹揚に答えた。
「よいではないか。お前も俺も胎果なのだから」
伴侶は驚いたように尚隆を見上げた。目尻に滲んだ涙が、一筋零れ落ちる。尚隆は微笑んでその雫を己の唇で拭った。伴侶はようやく見開いていた目を閉じた。
尚隆は伴侶の瞼に口づけた。それから、ゆっくりと頬に唇を滑らせる。そして。想いを籠めてその朱唇を吸い上げた。ほんのりと涙の味がした。
緊張が解れた伴侶の細腰を抱き寄せて、尚隆は満天の星が煌く夜空を見上げた。そして他愛のない会話を楽しんだ。尚隆は潮風に揺すられてさらさらと音を立てる笹を見やり、その意味を訊ねた。伴侶は楽しげに己のいた時代の七夕の話を聞かせてくれた。
会話が途切れても気まずくなることはなかった。見つめあい、微笑みを交わし、何度も唇を重ねる。そして伴侶はさやさやと揺れる笹を眺め、嬉しそうに笑んだ。
「来てくれて、ありがとう……」
幾度目かの口づけの後、伴侶は小さな声でそう言った。はにかむように笑うその貌は、匂やかで美しかった。そろそろ我慢を止めてもよい頃だろう。そう思い、尚隆は伴侶の耳許で甘く囁いた。
「それでは、彦星の願いを叶えてやってはくれぬか、織姫さま」
尚隆は応えを聞くことなく華奢な身体を抱き上げる。そして目を見張る伴侶を臥室へと連れ去った。
* * * 3 * * *
たまさかな逢瀬は疾く過ぎ行く。それが分かっているからこそ、尚隆は伴侶を情熱的に抱きしめる。物慣れぬ伴侶は羞じらいつつ、ぎこちなくそれに応えた。織姫と彦星ほどではないが、会える機会はそう多くはない。尚隆は伴侶をしっかりと抱きしめて眠りについた。
翌朝、空が白み始める頃に目を覚ました。尚隆は眠れる伴侶を起こさぬように身を起こし、袍を羽織った。そしてそっと露台へと向かった。
夜にはよく見えなかった短冊が、五色の色を取り戻していた。尚隆は短冊を手に取った。女王のぶっきらぼうな筆で様々な願い事が記されている。国と民の安寧を願い、友や臣の息災を案ずる女王。尚隆はその心根に感じ入った。
沢山ある短冊の中には流麗な文字で書かれたものもあった。それには、陽子の願いが叶いますように、と記述されていた。もうひとつ、少し拙い文字で、陽子の願いが叶いますように、と書かれたものがあった。
陽子、お前はよい友を持ったな、と尚隆は胸で呟いた。何度叛乱があったとしても、若き女王とその腹心はきっと越えていくだろう。そう思い、尚隆は晴れやかに笑った。
やがて目指すものに行き当たり、尚隆はほくそ笑む。女王がほんとうの願いを記したという見たことのない文字の短冊。
「──尚隆!」
不意に悲鳴のような呼び声がした。尚隆は件の短冊を高く掲げ、にっこりと笑む。伴侶は真っ赤な顔をして短冊に手を伸ばした。
「返して!」
「どうせ俺には読めぬのに、何故そんなに怒る?」
「──いいから返して!」
伴侶はますます顔を赤らめて言い立てる。その様が可愛くて、尚隆は思わず意地悪をしてしまう。
「どういう意味か教えてくれたら返してやる」
「絶対に教えない!」
伴侶は目を吊り上げて即答した。尚隆はにやりと笑って伴侶に問うた。
「では、分かる者のところへ持っていって訊くぞ。よいのか?」
「──!」
伴侶は唇を噛んで俯いた。握った拳が震えている。尚隆はしばらく伴侶を見守った。やがて、伴侶は瞳を潤ませ、小さな声で呟いた。尚隆は破顔し、素直な伴侶をきつく抱きしめた。
後に女王の友人たちが瞳を煌かせて女王の願いを聞き出そうとしたが、尚隆はにやりと笑んで答えなかった。
「女王の面目のためだ」
残念がる鈴と祥瓊を尻目に、尚隆は楽しげに笑う。そして、気位の高い女王が漏らしたほんとうの願いを胸で反芻した。
「──あなたに、ここに、来てほしい」
2008.08.07.
今日は北の国のほとんど地域は七夕でございます。
しかも、旧暦の七夕も重なっているのです。
そんなわけで、出来心の短編を仕上げました。
7月7日にアップした短編「笹飾」の尚隆視点でございます。
思ったよりもコメディに仕上がり、作者も驚いております。
よろしければお楽しみくださいませ。お気に召していただけると嬉しく思います。
2008.08.07. 速世未生 記
背景画像「深夜光房」さま