笹 飾
* * * 1 * * *
「そろそろ七夕ね、陽子。今年は笹を用意するわね」
七月も近いある日のこと、祥瓊がそう言って微笑んだ。陽子は少し驚いた。蓬莱の行事のことを、祥瓊が提案するなんて。そんな陽子に鈴が笑い含みに告げる。
「去年は、七夕どころじゃなかったでしょ?」
ああ、と陽子は頷く。確かに昨年の夏は七夕など頭になかった。泰麒捜索にかかりきりで、他のことを思う余裕がなかった。その余裕のなさが、何を齎したか。陽子は苦い思いで振り返る。宮中内宮を司る長である内宰の謀反──。
張りつめていた糸が切れるような深い虚脱を、陽子は今も尚、忘れることができずにいる。己の信じるものが足許から崩れるような、あの暗い深淵に飲みこまれる感覚を。
「今年は、予め笹を用意して、短冊を飾りましょう」
暗い物思いに沈みかける陽子に、鈴が明るい声をかけた。はっと鈴を見つめた陽子は、すぐに視線を逸らした。
「でも……」
陽子は口籠る。そんなことをしたら、景麒が何と言うか。蓬莱を恋うる国主に臣はついてこない、と諫言されるのではないか。しかし、鈴と祥瓊はにっこりと笑みを見せた。
「大丈夫よ。笹を飾るのは、この堂室にするから」
「実はね、台輔には内緒で、もう用意してあるの」
「──どうして?」
「我が国の織姫さまの願いを叶えてもらうためよ」
「願い事は短冊に書かないと叶わないでしょ?」
二人は、口々にそう言った。陽子は目を丸くする。それから、その言に隠された意味に気づき、頬に血が昇るのを感じた。その顔が可笑しい、と鈴も祥瓊も楽しげに笑う。
「後で運ばせるわ」
「それまでに短冊に願い事を書いておいてよ」
二人は卓子の上に色とりどりの料紙を置いて出ていった。一人になった陽子は、細く切られた料紙を見て笑みを零す。懐かしい七夕の想い出が蘇ってきた。
秘めた恋を隠すため、横文字で書いた短冊。叶うはずもない、切ない願いを、そっと書きつけた。
wish you were here ……
あなたに、ここに、いてほしい……。
あの夜、陽子は伴侶の夢を見た。陽子は、彦星に会えた織姫のように、幸せを噛みしめた。たとえ夢でも、会わせてくれた短冊に感謝した。そして、陽子のために祈ってくれた、心優しい友人にも──。
昨年の夏は、密かに訪れる伴侶と夜を過ごした。互いに一国の王、そんなことがこの先あろうはずもない。そして今年は、秘めた恋を、友人が応援してくれている。その好意に甘えて、胸に秘める願いを書こう。陽子はゆっくりと筆を動かした。
wish you came to here ……
いくら自室に飾るといっても、本心をこちらの言葉で書く気にはなれなかった。そして、日本語で書くことはもっとできなかった。叶うはずのない夢。きっと、文字にするだけで、想いが涙とともに溢れてしまう一言。
あなたに、ここに、来てほしい……。
切ない想いは、短冊が昇華してくれた。陽子は笑みを浮かべ、次の短冊を取り上げた。未だ落ち着かない己が国のために。その国のために力を尽くす仲間たちのために。陽子はひとつひとつ願いを籠めて短冊を書き記していった。
やがて、鈴と祥瓊が笹を持った奚とともに戻ってきた。笹を受け取って奚を労い、陽子は唇を緩める。それから、露台に笹を立て、三人で短冊を飾った。沢山の短冊に記された願い事を見て、鈴と祥瓊は苦笑した。
「陽子ったら、人の心配ばかり」
「そういう鈴だって、私のことを願ってくれただろう?」
「今年は私も書いたわよ」
そう言って祥瓊は美しい文字で記された短冊を示した。陽子の願いが叶いますように、と書かれたその短冊を見て、陽子は胸が熱くなった。
「──ありがとう、祥瓊。嬉しいよ」
「願い事は、きっと、書かなくちゃ叶わないのよ」
「そうよ、陽子。ほんとの願いは書いたの?」
二人は瞳を輝かせて陽子の短冊を漁りはじめる。そして、陽子が止める間もなく横文字で書かれた短冊を探しあてた。にやりと笑う祥瓊が訊ねる。
「何て書いたの?」
「──内緒」
陽子は頬を染めて蚊の鳴くような声で答えた。鈴と祥瓊は、同時に吹き出した。そして顔を見合わせて笑いあう。陽子は拗ねた声を上げた。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないか!」
「はいはい」
「分かったから」
何が分かったのか分からない、と口を尖らせる陽子に、二人は全く頓着しない。ただ、願いが叶うといいわね、とだけ告げ、楽しげに退出していったのだった。
* * * 2 * * *
月日は瞬く間に過ぎ去る。いつもの日と同様に、七夕当日の陽が落ちた。色とりどりの短冊が飾られた笹も、色を失っていく。そして、暮れゆく空に現れる明るい星。蓬莱のものとは違う星を見つめ、陽子は薄く笑う。織姫も彦星も見えないけれど、心優しい友人たちのお蔭で、七夕を泣かずに迎えられた。
(尚隆……)
陽子は胸で伴侶の名を呼ぶ。我が伴侶も、七夕の夜空を見上げているだろうか。そんなことを感傷的に思い出すのは、陽子だけかもしれない。そう思うと、会いたい気持ちが募る。
あなたが、来てくれたらいいのに。今、このとき、海の上を駆けて来てくれたらいいのに。
叶わぬ願いに自嘲し、陽子は堂室に戻る。長めに取った休憩は、もうお終いだ。陽子は露台の笹を一瞥し、笑みを湛えて執務室に向かった。
仕事を終え、夕食を取り、七夕の夜はいつものように過ぎていく。それでも、堂室には五色の短冊に飾られた笹がある、と思うと、いつになく楽しい気分になる。堂室に戻った陽子は、真っ直ぐに露台へと向かった。
吹きつける潮風に、さやさやと揺れる笹と短冊。そして、満天の星が空に煌いていた。こんな夜には、ほんとうに織姫と彦星が年に一度の逢瀬を楽しんでいるかもしれない。夜空を見上げ、陽子は感嘆の溜息をつく。そんなとき。
空から何かが降りてきた。思わず身を乗り出して、陽子は息を呑む。見る間に近づいてくるものは、騎獣に跨る、大きな影──。
「──織姫に会いに来たぞ」
笑いを含んだ明朗な声が響く。それはまさしく、会いたいと願っていたひとの声。突然現れた隣国に住まう伴侶を認めても、陽子は声を出すことができなかった。騎獣から降りた伴侶は、唇を歪めて笑う。
「──迷惑だったか?」
相も変わらず意地悪なその問いに、陽子は激しく首を横に振る。そして、ようやく声を振り絞って問うた。
「どうして……?」
「今日は、七夕ではないか」
あっさりと断じて伴侶は破顔した。そして、まだ目を見張る陽子を優しく抱き寄せる。これは夢? 温かな胸に抱かれて尚、陽子はそんなことを思う。そんな陽子を見下ろして、伴侶は苦笑気味に零した。
「──この織姫さまは、どうにも疑り深くて困るな」
「だって……織姫と彦星は、蓬莱のお話じゃないか……」
この期に及んで口に出す言葉が、そんな憎まれ口だなんて。陽子の目に涙が滲む。伴侶は楽しげに笑った。
「よいではないか。お前も俺も胎果なのだから」
何気なくそう言う伴侶の顔を、陽子は思わず凝視する。伴侶は優しい笑みを見せ、零れた涙をいつものように拭ってくれた。陽子は目を閉じた。瞼に、頬に、温かい唇が触れる。そして、その唇は、ゆっくりと陽子の唇に辿りつく。今宵の口づけは、涙の味がした。
そのまま二人で夜空を見上げ、他愛のない会話をした。話が途切れると見つめあい、何度も口づけを交わす。そして、陽子は笑みを湛え、さらさらと音を立てる笹を見やった。
願い事を叶えてくれて、ありがとう。
胸で短冊に感謝の言葉を呟いて、陽子は伴侶を見上げる。そして、小さな声で伴侶に告げた。
「来てくれて、ありがとう……」
やっと素直に礼が言えた。陽子はほっと胸を撫で下ろす。伴侶はにやりと人の悪い笑みを見せ、陽子の耳許で甘く囁く。
「それでは、彦星の願いを叶えてやってはくれぬか、織姫さま」
「え……」
陽子が応えを返す前に、伴侶は陽子を抱き上げる。そして、狼狽える陽子をさっさと臥室に連れ去ったのだった。
2008.07.07.
全国的に七夕の今日、出来心の短編を仕上げました。
今日一日で断続的に書き上げた七夕のお話、よろしければお楽しみくださいませ。
2008.07.07. 速世未生 記
背景画像「深夜光房」さま