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七 夕

 仕事を終えて自室に戻った陽子は、ふと今日が何の日か気づいた。微笑を浮かべ、露台に出る。見上げると、満天の星が輝いていた。
 今日は、蓬莱では七夕に当たる日。天の川に分かたれた織姫と彦星が、年に一度の逢瀬を許された日であった。

 尚隆なおたか──。

 蓬莱とは違う夜空に明るい星を探しながら、胸でそっと伴侶の名を呟く。高岫を越えた都に住むあのひとは、今頃、何をしているのだろう。同じこの星を見上げているのだろうか。
「陽子……?」
 切ない想いに涙が滲みそうになったとき、後ろから声をかけられた。それは、陽子の身の回りの世話を一手に引き受ける女御の声。
 陽子は振り向かずに応えを返した。一番身近にいる友にさえ秘めている隣国の王への想い。女王の恋を厭う慶の民に知られるわけにはいかないのだ。
「どうしたの? ぼんやりして」
「今日は七夕だな、と思って空を眺めていたんだ」
 鈴の問いに、仄かな笑みとともに応えを返した。海客の鈴ならば、七夕を知っているだろう、と思って。そしてそのまま夜空を見上げる。鈴は陽子の隣に立ち、同じように空を見つめていた。やがて。

「──蓬莱が、恋しくなっちゃった?」

 意外な問いに、陽子は思わず鈴を凝視した。不安げなその瞳を見返して笑みを送る。
「ううん、そうじゃない」

 故郷が恋しいわけではない。二度と帰れない故郷よりも、もっともっと恋しいものは──。

「織姫と彦星が、ちゃんと会えたらいいなって思っただけ」
「──大丈夫、きっと会えているわよ」
 しばし黙した鈴が優しく答えた。その何気ない言葉に、どんなに癒されただろう。
「ありがとう、鈴……」
 そう返しながら、泣きそうになった。けれど──。友だから、涙を見せたくはなかった。涙の理由を話すわけにはいかないのだから。
 陽子は頑なに振り返らなかった。物問いたげな鈴の視線を背に感じた。けれど。
 おやすみ、と告げて鈴は下がっていった。おやすみ、と陽子も応えを返した。何も訊かずに背を向けた友人に、ありがとう、と胸で何度も呟きながら、陽子はそっと涙を零した。

* * *    * * *

 再び満天の星空を眺めていた。夜空を大きく横切る天の川はないけれど。そういえば、東京の空も、星などあまり見えなかった。そんなことを思いながら、彦星の訪れを待つ織姫のように、飽かず空を見上げた。そんなとき。
 輝く星々の間から矢のように飛来する影があった。陽子は目を見開いて身を乗り出す。騎獣が露台に着地する前に、ひらりと飛び降りた黒い影が、軽々と陽子を抱き上げた。
 驚きのあまり声も出せないでいる陽子に人の悪い笑みを見せ、恋しい伴侶が甘い口づけを落とす。陽子はその逞しい体躯にしがみつき、声を殺して泣いた。
 太い腕が陽子の身体を抱きしめ、大きな手が優しく髪を撫でる。見つめあい、笑みを送り、そして、何度も口づけを交わした。

 まるで夢のよう。夢なら覚めないで。

 頬を伝う涙を拭う温かな唇を感じながら、陽子は幸せを噛みしめた。

* * *    * * *

 目覚めると、空が白みかけていた。陽子を温める伴侶は隣にいない。気づいた場所は、牀ですらなかった。陽子は卓子に伏して眠っていたのだ。

 夢を見ていたのか。

 陽子は自嘲の笑みを浮かべる。伴侶が雲海から直接陽子を訪ったことなどない。気儘な延王尚隆といえども、そこまで礼儀を欠いたことはしないだろう。それでも。

 たとえ夢でも、会えたことが嬉しい。

 素直にそう思った。そして陽子は卓子を見下ろす。七夕に寄せた書いた、短冊のように細く切った紙が目に入った。誰かに見られても大丈夫なように、横文字で綴られた切ない想い。

 wish you were here ……
 あなたに ここに いてほしい ……。

 短冊は、伴侶を恋うる陽子の願いを叶えてくれた。大丈夫よ、と微笑んだ友の顔が胸に浮かんだ。陽子はそっと短冊を抱きしめる。

 あのひとに会わせてくれてありがとう、と。

2007.08.19.
 「星願」陽子視点、小品「七夕」をお送りいたしました。 今更また七夕? はい、今日は旧暦の七夕なので。
 陽子主上の呟きを、書き留めてみました。 どうやら私は遠恋萌えもあるようでございます。

2007.08.19. 速世未生 記
背景画像「深夜光房」さま
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