悪 戯
泰麒は依然として見つからない。あちらとこちらを行き来する麒麟は勿論のこと、蘭雪堂にて留守居をする者たちにも疲れが見て取れた。鬱屈した空気は小さな諍いを呼び寄せる。氾王呉藍滌は、密かにそんな現状の打開策を思案していた。
「景女王、たまには美しく装って疲れた者どもの目を楽しませてくりゃれ」
「──氾王」
笑みを浮かべて声をかけてみれば、男装の麗人は困惑したように応えを返す。氾王の世話をする女史は、頑なに襦裙を拒否する主なのだ、と溜息をついていた。氾王は敢えて笑みを深め、重ねて官服の女王を促す。
「私が着せて進ぜよう」
唐突な申し出に躊躇する女王の手を取り、氾王は有無を言わせず歩を進める、頭の中では若き女王に似合いそうな襦裙を思い浮かべていた。
淹久閣の自室に着くと、氾王は女王を榻に坐らせ、己はさっさと襦裙を検分する。そうして目に適った一枚を広げてみせた。
「──これがよい。そなたによう似合うはずじゃ」
氾王は女王の手を引いて立たせると、問答無用に袍を脱がせ始める。うら若き女王は、呆然と立ち尽くした。されるがままになる無防備さがまた氾王の興をそそる。小衫ひとつになった女王を眺め、氾王は思わず感嘆の溜息をついた。
「そなたは、美しいのう……」
武断の王とも称せられる少女王の身体は、華奢だがしなやかで均整がとれている。氾王の賞賛に、女王は小さく目を見張り、それから恥ずかしげに頬を染めた。己の美貌を理解していない、との女史の言はほんとうだったか。氾王はそのまま手を伸ばし、女王の髪を纏めている組紐を解いた。豊かな緋色の髪が、さらりと音を立てて細い背を覆う。
「まるで紅の炎を纏っているようじゃな」
氾王は感想を述べつつ女王の髪を指で梳く。すると、女王の肩が僅かに跳ねた。思わぬ甘やかな反応に苦笑が漏れる。
「──おやおや。蕾の花と思うていたが……」
まさか、もう男を知っていたとは。
「氾王……」
戸惑ったように氾王を見上げる女王は、年相応の少女のように可愛らしい。何を言われているのか分かっていない稚さは、氾王を更に楽しませた。
「そなたは、ほんに可愛いのう」
氾王は女王を抱き寄せて頭を撫でる。いつも氾麟にするように。腕の中の細い身体が緊張に強張ることはなかった。かといって、身を委ねるふうでもない。男の抱擁の意味を、本能で理解しているのだろうか。
少し試してみたい気になった。が、覗きこんだ翠玉の瞳に真っ直ぐ見つめ返されて、その気が削がれた。この翠の宝玉は、やはり一国の王のもの。戯れを撥ね退ける勁さを秘めている。
雁からの連絡を受けて、強かな北の大国の王を動かした若き王に興味を持った。指定された雁ではなく、慶を訪ねた目的のひとつは景王の為人を見るためだ。男装を貫く女王は、覇気に満ちた人物だった。成程あの延王が助力するだけのことはある、と納得できるほどに。
「さて、咲き初めた花を、更に美しく咲かせる手助けをしようかの」
硬い貌の女王に微笑を送り、氾王は華やかな襦裙を着付ける。すべらかな緋色の髪を丹念に結い上げ、吟味した装飾品を飾り付け、薄く化粧を施した。思ったとおりの素晴らしい仕上がりに、氾王は満足して頷く。
「さあ、できた。どうだえ、美しいであろ?」
女王を促して鏡を覗く。いつも凛々しい男装姿を見せる女王は、己の変わりように翠の瞳を大きく見張って絶句した。美しき者はその美しさを如何なく発揮すべきだ。美には人を動かす力がある。匠の国を統べる氾王はそう思う。
「さて、疲れた者どもの目を癒しに参ろう。その前に……」
変貌した己の姿に驚く女王を見ていると、抑えていた悪戯心が疼いた。氾王は女王の華奢な身体をふわりと抱きしめる。にっこりと笑んで頤を持ち上げ、女王の朱唇を軽く啄んだ。
「──!」
「美しい花は、見るだけでなく、触れてみたくなるものだよ」
女王は声なき悲鳴を上げ、唇を押さえる。見る間に頬が髪と同じ色に染まった。眺めるだけで唇がほころびる可憐な様だ。この素の可愛らしさを愛でる男は誰なのだろう。好奇心を擽られる。しかし。
氾王はそんなことをおくびにも出さない。羞恥に固まる女王に笑いかけ、これ以上困らせないよう先に立って歩き始めた。
美しく装った女王を連れて戻ると、蘭雪堂の空気は一気に華やいだ。氾王は満面に笑みを湛え、未だ羞じらう女王を皆に披露する。
「どうだえ、美しかろ?」
「まあ、陽子、素敵だわ!」
「綺麗だぞ、陽子!」
氾麟と延麒が素直に歓声を上げ、頬を染めて俯く女王に駆け寄った。廉麟も楽しげに笑って首肯する。そして景麒は少し目を見張り、それから満足げに頷いた。景麒が主の男装を認めているわけでないと悟り、氾王はくすりと笑う。そして。
延王尚隆は、見事なまでに無反応だった。まるで、反応することを禁じているかのように。氾王はゆったりと声をかけた。
「猿王、どうしたのじゃ? ……さてはおぬし、景女王に心を奪われたね?」
「──それは貴様のほうだろう」
氾王の揶揄に、延王は即座に応えを返す。少し蹙めたその顔は、いつもと変わらないように見えつつも余裕がないようにも思える。僅かな動揺を見て取り、氾王は扇を広げて微笑した。そのまま視線を巡らせる。麗しき女王は目を伏せたまま。その頑なさを麒麟たちに揶揄われ、更に頬を朱に染めていた。
面白い。このまま観察を続ければ、新たな事実が分かるかもしれない。
氾王は密かにそう思い、笑みを深めた。そして視線を延王に戻す。
「無論じゃ。眼福であろ」
「もとより綺麗な娘だがな」
その一言で、女王がこの男の審美眼に適っていることが分かり、氾王は声を上げて笑った。
「素直でないねえ」
「抜かせ」
ひとしきりいつもの応酬を繰り広げ、氾王は大きく頷く。蘭雪堂の鬱屈した空気は、華やかに装った女王のお蔭で払拭された。氾王は己の仕事の出来栄えに満足したのだった。
2014.02.14.
長編「黄昏」余話、小品「悪戯」をお届けいたしました。
御題其の五十八「氾王の疑問」、其の四十六「氾王の悪戯」、其の五十七「悪戯の成果」、
常世語のお題(尚陽編)「華やかな襦裙」の氾さま視点でございます。
何故に8年も前の作品を!
実はしばらくの間、長編「黄昏」のCSSを弄っておりまして、
頭が「黄昏」仕様になってしまったのでした。
「黄昏」も書き終えたのは7年前なのですが、そんなに経ったように思えません。
進歩がない奴とお笑いくださいませ……。
氾さまが二人の関係に気づくのは時間の問題というわけで(苦笑)。
昨日と今日で楽しく仕上げました。
ヴァレンタイン・デーには全く関係なくてごめんなさい。
それでも皆さまにお気に召していただけると嬉しゅうございます。
2014.02.14. 速世未生 記