困 惑
「浩瀚」
庭院に佇む冢宰を見つけ、景王陽子は声をかけた。しかし、浩瀚は応えを返さない。訝しげに近寄ると、浩瀚はぼんやりと手許の花を見やっていた。
珍しいこともあるものだ、陽子は少し驚いた。冢宰浩瀚は、常に冷静に仕事を捌き、隙を見せることなどなかったのだから。
「浩瀚」
冢宰に用があった女王は、もう一度呼びかける。しかし、やはり応えはない。景王陽子は、物思いに沈む冢宰の耳許でその名を呼んだ。
「浩瀚!」
背中をびくりと震わせて、浩瀚は振り返った。その、驚きに満ちた顔。初めて見せるその貌に、陽子も驚き、絶句した。二人はそのまま、あまりに近い距離で見つめあう形となった。
そして、浩瀚は、陽子をもっと驚かせた。なんと、陽子との距離を突如なくしたのだ。陽子は目を見張った。
陽子の唇に軽く触れて離れた唇は、黙して何も語らない。陽子は目を見開いたまま、目の前の男をつくづくと見つめた。男は悪戯を見つけられた小童のように、ばつが悪そうな貌を見せる。怜悧な冢宰の意外な一面に、陽子は思わず苦笑した。
「──浩瀚、私はお前に、何かしたかな?」
「──いいえ」
「では、質問を変えよう。私には、隙があるのか?」
「──はい」
「……そうか」
簡潔に答え、目を伏せる男に、陽子は軽く溜息をつく。胸に陽子を諫める様々な顔と声が過った。だから、隙を見せるな、と皆が煩いのか。そう思いつつ、陽子は己の股肱に謝罪する。
「済まなかったな」
「──何故、主上が謝られるのです」
浩瀚は瞠目した。どうやら、陽子の叱責を覚悟していたらしい。取るべき距離を越えて近づいた陽子が悪いのに。そう思い、陽子は浩瀚に笑みを向けた。
だから言ったでしょう、と祥瓊が嘆息する。それは拙いんじゃないの、と鈴が心配そうに呟く。そして、お忍びに付き合う班渠の深い溜息──。皆が陽子の無防備さを諫めるのだ、と言うと、浩瀚は意外なことを訊いた。
「──かの方が、そんなことを?」
陽子はゆっくりとかぶりを振る。そういえば、尚隆がそういうことを言ったことはない。だから、余計に頭から抜けてしまうのだろうか。
「でも、お前の傍にいると、気が休まるんだよな……」
陽子はいつも穏やかな笑みを見せる己の右腕ともいえる臣を見上げた。浩瀚が男であるなど、意識したことはなかった。そんなことを意識できる余裕など、己にはないのだ。そして浩瀚は、いつも愚かな王を、陰になり日向になり補助してくれている。だからこそ、老獪で狡猾な官吏と渡り合っていけるのに。
王のくせに、陽子は有能な臣に甘え過ぎている。まだ驚いている浩瀚に、陽子はもう一度詫びた。済まなかった、気を抜きすぎていたようだ、と。
「──主上、私のほうこそ……。申し訳ございません」
そう謝罪し、浩瀚は陽子の前に跪いて深々と頭を下げた。それから、陽子の目を真っ直ぐに見つめ、決然と告げた。
「主上にお気を遣わせるようなことは、二度といたしません」
「──浩瀚」
その真摯な態度に、陽子はまた少し驚いた。
愚かな王に、この有能な男はいつまで頭を下げてくれるのだろうか。
しばし黙した陽子を、浩瀚は微笑して促す。陽子は案件の相談をするために怜悧な冢宰を捜していたことを思い出す。浩瀚は何事もなかったかのように陽子の話に耳を傾けた。
元に戻った浩瀚を見て、陽子は内心ほっとした。気を抜かない、と約束はしたけれど、実際どうすればよいものか。陽子には、それがさっぱり分かっていなかったのだから。
回廊を歩きながら、半歩下がって歩く臣を盗み見る。浩瀚はそんな陽子にいつもの如く涼しげな笑みを返す。安心していいですよ、と言われたような気がして、安堵の息をつく。それから、小さな声で、噛みしめるように告げた。
「──ありがとう、浩瀚」
笑みを湛えた臣は、恭しく拱手を返した。
2007.02.28.
我慢できずに書き流した、小品「惑乱」の陽子視点、小品「困惑」をお届けいたしました。
「惑乱」を書きながら、陽子主上の天然具合に頭が痛くなりました。
で、いったい何を考えているのか訊ねてみました。
──ますます頭が痛くなりました。どうもお粗末さまでした……。
2007.02.28. 速世未生 記