挑 発
麗らかな陽気の中、金波宮は賓客を迎えていた。例の如く、突然現れた隣国の主従である。景王陽子は嘆息しながらも、慣れた調子で高貴な客人を迎え入れた。
冢宰浩瀚は急ぎの案件を持って主の執務室に向かっていた。扉が開け放たれた堂室からは、賑やかな笑い声が響いている。
聞き覚えのある声に、浩瀚はふと足を止める。それは、忘れたくても忘れようがない、隣国の放埓な王と気儘な宰輔のものだ。またか、と浩瀚は小さく溜息をついた。
しかし、恩義ある大国の主従に対し、不遜な態度を見せてはならない。浩瀚は気持ちを切り替え、衝立の陰から国主景王に声をかけた。
「──主上、入ってもよろしいですか?」
「浩瀚か。どうぞ」
入室の許しを得た浩瀚は、榻で寛ぐ延王尚隆と卓子に坐る延麒六太に恭しく拱手した。それから改めて己の主に歩み寄る。
主は顔も上げずに雁国主従に応えを返し、政務を執っている。そんな主の姿には、ある種の貫禄さえ見られる。浩瀚は、この状況でも休むことなく筆を動かす主に、賞賛の眼差しを向けた。
「じゃあな、陽子。おれ、適当に遊んでくる」
浩瀚が口を開く前に、延麒が卓子を飛び降りる。見ると、延王も榻から立ち上がっていた。
「ああ、済まない、延麒。延王、いつもの堂室が用意できていますから、そちらへどうぞ」
闊達な笑みを湛えた主が雁国主従に声をかけた。唐突に訪れる賓客のために、掌客殿はいつでも使えるように手入れされている。それを知る二人の賓客は、手を振って執務室を出て行った。
「──待たせたな、浩瀚」
「いえ、そんなことはございませんが……。よろしいのですか?」
「あのひとたちは、放っておいても大丈夫だから。さてさて、さっさと仕事を片付けよう」
軽く溜息をつきつつも、主は鮮やかに笑う。公にされていない主の伴侶とその半身は、いつも主に明るい笑みを齎す。主の眉間の皺を消すことができない浩瀚は、複雑な胸中を隠し、案件を奏上したのだった。
頻繁に会うことのできない伴侶の訪れは、主の書簡を捌く速度を上げる。常より早く仕事を終えて、主は意気揚々と執務室を出る。庭院では延麒六太がにこやかに手を振っていた。
数多の花が咲き乱れる庭院で、主は延麒と楽しげに語らっている。回廊を歩く浩瀚は、咲き誇る花よりも麗しい笑顔を、そっと眺めた。そのとき。
「──慶の至高の花は、いつもの如く美しいな」
いつの間に近づいたのか、明朗な男の声が、すぐ後ろで響いた。笑い含みのその言葉に、浩瀚は一瞬顔を蹙める。それからすぐに振り返り、声の主に恭しく拱手した。隣国の王は片眉を上げ、人の悪い笑みを見せる。
「どうした、艶やかな紅の花を愛でていたのだろう? 俺に気遣う必要はない」
「我が国の花をお褒めいただき、恐縮にございます」
その揶揄には答えず、浩瀚は再び慇懃に頭を下げた。延王尚隆は呵呵大笑し、さも面白げに返す。
「まるで己のもののような物言いだな」
「──我が国のものは、花も人も、全て我が主上のものにございます」
「ほう」
浩瀚の淡々とした応えをどう受けとめたのか、大国の王は一言返し、しばし黙した。それから、くつくつと低い笑い声を漏らす。
「花を愛でし守り人は、美しいうちに手折るが花、とは思わぬものか?」
「──」
その、思わせぶりな問いかけ。浩瀚は頭を下げたまま黙していた。この方は、浩瀚にどんな応えを期待しているのか。その意図が分からぬままに答える危険は避けなければならない。
「──面を上げよ」
有無を言わせず命ずる王者の声に、浩瀚はゆっくりと顔を上げる。人を従わせることに慣れている男は、おもむろに口を開く。
「──陽子は俺のもの、というわけではない」
隣国の王は口許を歪めて笑う。そしてその深い色を湛えた双眸は、真っ直ぐに浩瀚を見つめる。
「欲しいと思うなら、手折ってみよ」
「──お戯れを仰る」
「陽子が拒まぬなら、俺は構わんよ」
いったい何を考えているのか、この方は。単なる挑発なのか、それとも──。
浩瀚は警戒する心を隠せない。そんな浩瀚の様子を面白そうに眺め、隣国の王はゆったりと続けた。
「──そういう目をする男、俺は嫌いではない。ただし──」
ふっと息をついた延王尚隆は、いきなり浩瀚を壁に押し付けた。そして凄惨な目をして嗤う。
「陽子を傷つけたら、ただではおかない」
「──私にそんなことができるとでも?」
「──それを、お前が俺に訊くのか?」
「──」
「──己が胸に訊いてみるがよい」
延王尚隆は酷薄な顔をして言い放ち、踵を返す。その背が燃やす昏い炎を、浩瀚は黙して見つめた。
やがて、際立つ気配を放つ隣国の王に気づいた主が、破顔して手を降る。主の名を呼び、大股に庭院に降りる延王は、既に物騒な気を脱ぎ払っていた。何もなかったように主と語らう、王と呼ばれる男の背を、浩瀚はただ黙して眺め続けた。
2007.02.27.
お待たせいたしました、短編「挑発」をお届けいたしました。
拍手其の十九「かの方の挑発」を加筆修正して持ってまいりました。
この「かの方の挑発」、某所さま「混沌(!?)祭」に献上したものでございます。
ずっと書きたくて、でも状況がよく見えなくて書けなかった「尚浩対決」なお話です。
今回纏めることができて、嬉しく思います。お気に召していただけると、もっと嬉しいです。
2007.02.27. 速世未生 記