惑 乱
「浩瀚!」
驚くほど間近で名を呼ばれ、慶東国冢宰浩瀚は驚いて振り返った。そしてまた驚く。国主景王の麗しい顔が、目の前にあることに。
二重に不意打ちを食らい、浩瀚はかなり動揺していた。そして──胸に隣国の王の声が蘇る。
(欲しいと思うなら、手折ってみよ)
──ただの挑発だと分かっていた。かの方は、浩瀚を試しているだけだ。浩瀚にそんなことができるはずもない、と。しかし──。
目の前の紅い唇は、抗いがたい美しさを持っていた。まるで花に吸い寄せられる蜂のように、浩瀚はそっとその朱唇に己の唇を重ねた。瑞々しくも甘い果実に触れた、そんな気がした。
主はその翠玉の瞳をいっぱいに見開き、声も出さなかった。唇を離し、浩瀚は主を見つめた。主はまだ目を見開いたままだった。ややあって、主は苦笑を浮かべた。
「──浩瀚、私はお前に、何かしたかな?」
「──いいえ」
「では、質問を変えよう。私には、隙があるのか?」
「──はい」
「……そうか」
主は苦笑を浮かべたまま、小さく溜息をついた。それから、意外なことを言った。
「済まなかったな」
「──何故、主上が謝られるのです」
主の謝罪に浩瀚は瞠目した。不遜なことをしたのは、浩瀚のほうなのに。叱責を受ける覚悟をしていた浩瀚に、主はふわりと清麗な笑みを向ける。
「無防備すぎるって、よく叱られるんだ。だから気をつけていたのだけれど」
「──かの方が、そんなことを?」
「あのひとは、何も言わないよ。でもね、他の人は、よくそう言う。……班渠にまで言われるんだ」
そう言って主はくすりと笑った。そうして、浩瀚を見上げて、ぽつりと呟く。
「でも、お前の傍にいると、気が休まるんだよな……」
その言葉に、浩瀚ははっと胸を衝かれた。王として、老練な官吏と渡り合う主。いつも意志の勁い光を湛える翠玉の瞳は、淡い笑みを浮かべていた。
「だから、済まなかったな、と。私は気を抜きすぎていたようだ」
「──主上、私のほうこそ……。申し訳ございません」
浩瀚は主の前に跪き、深々と頭を垂れた。臣下の不遜な行為をも笑って許せる懐の広い主に、浩瀚は心から詫びた。そして胸で呟く。
(延王……私にこの方を傷つけることができるなどと、本気でお思いですか?)
それとも。かの方は、この結果を見抜いていたのだろうか。そう思い至り、浩瀚は自嘲の笑みを浮かべる。
そう、己にこの位置を手放す勇気などない。
浩瀚は頭を上げて主を真っ直ぐに見つめた。
「主上にお気を遣わせるようなことは、もう二度といたしません」
「──浩瀚」
決然と告げる浩瀚に、主は僅かに目を見張り、苦笑を零した。浩瀚は微笑を浮かべ、主を促す。
「私に御用がおありなのでしょう?」
「ああ、そういえば」
主は王の顔を見せ、仕事の相談をし始める。浩瀚は冢宰に戻り、主の話を聞いた。主の心安らげる場所を奪う己の惑乱を、二度と赦すまいと胸に誓いつつ。
2007.02.23.
お待たせいたしました、「挑発」の続きとも言える小品をお届けいたしました。
どちらかというと、こちらを出したかったのですが、自粛しておりました。
頭が壊れていたので、つい出してしまいました。
お気に召さなかったらごめんなさい!
2007.02.27. 速世未生 記