夢 現
* * * 第六夜──悪夢 * * *
尚隆はふと目を覚ました。空が白み始めていた。反射的に腕の中の温もりを確かめて、尚隆は僅かに目を見張る。
明け方の薄い光にぼんやりと浮かぶ、麗しき伴侶の頬を伝う、一筋の涙──。
己にも分からぬ衝動に突き動かされ、尚隆は密やかにその名を呼んだ。
「──陽子?」
悪夢の只中にいた陽子は、己を呼ぶ声で目を覚ました。目を開けると、心配そうに覗きこむ瞳があった。あれは夢だったのか。現に戻り、陽子は尚隆にしがみつく。そして、声を殺して泣いた。
「陽子……」
尚隆は再び陽子に呼びかけた。やおら尚隆の首に華奢な腕を絡め、陽子は小さく首を振る。温かな涙が尚隆の胸をも濡らした。尚隆は微笑し、陽子をそっと抱きしめた。
言葉はなくとも、想いは伝わる。
尚隆はそれを知っている。陽子は、また、夢を見たのだろう。王の足許に潜む暗い深淵が見せる、耐え難い悪夢を。尚隆は陽子の震える身体を撫で続けた。悩める伴侶を落ち着かせるために、優しく、柔らかく。そして、陽子が口を開くのを、ゆったりと待った。
そんな尚隆の胸に顔をつけ、陽子は涙を流し続ける。宥めるように、あやすように陽子の背をさする尚隆の大きな手。その胸の穏やかな鼓動が、少しずつ陽子を落ち着かせていく。深く息をつき、陽子は悪夢を反芻した。
陽子は夢を見ていた。愛するひとの子供を身籠る、幸せな夢。
次第に膨れていく陽子のお腹を、尚隆は愛おしげに撫でる。二人で語らい、名前を考え、とうとう産み月を迎えた。それなのに──。
(──お前の子供は、慶の民だけだ)
非情な声が響き渡り、お腹の子は呆気なく連れ去られた。産むことも、顔を見ることも叶わなかった。声を限りに叫んでも、手を伸ばしても、もう、あの子は戻らない──。
国も、民も、いらない! 私の……私と尚隆の赤ちゃんを返して!
平らなお腹を抱きしめて、声を限りに叫ぼうとしたその刹那、陽子は尚隆の声に引き戻されたのだ。
ああ──聞かれなくてよかった……。
温かい胸に抱かれて、陽子は心からそう思った。
──言葉なくとも想いは伝わる。
けれど、感じたことや考えは、言葉にしなければ伝わりはしない。いや、言葉にしても尚、伝えられないこともある。そして、伝えたくないことも、確かにあるのだ。陽子は尚隆の胸に顔をつけたまま、微かに呟いた。
「──ありがとう」
尚隆の耳は、陽子の微かな礼を聞きとった。尚隆は震えの止まった小さな背を軽く叩き、低く笑った。
陽子は胸で何度も感謝を述べる。
何も訊かずにいてくれてありがとう。何があっても、これだけは、あなたには言わない。あなたにだけは、知られたくない。だから、涙のわけを問わずにいてくれて、ほんとうにありがとう。
陽子はそのまま、尚隆の優しい鼓動に意識を預けた。
尚隆は陽子が紡ぐ次の言葉を待っていた。しかし、陽子の身体から次第に力が抜けていく。そして、後に聞こえたのは、静かな寝息だけ。
「陽子」
応えはない。尚隆は苦笑する。陽子の想いは確かに伝わった。尚隆は肩を竦めてひとりごちる。
「──語りたくない、か」
それもよい、と思ったのは、度し難い伴侶が愛おしいから、なのかもしれない。そう、己の伴侶は、誇り高き女王なのだから。
尚隆は微笑を浮かべ、陽子の頬に残る涙を己の唇で拭う。脆くて勁い景王陽子を抱き寄せて、延王尚隆もまた静かに目を閉じた。
2008.03.29.
久しぶりの「夢現」でございます。
オマケ拍手「涙」と「涙のわけ」をいつもと手法を変えて纏めてみました。
いつも登場人物にどっぷりと感情移入して書いているので、結構難儀してしまいました。
たまには違った感じのものもご賞味くださいませ。
お気に召していただけると幸いでございます。
2008.03.31. 速世未生 記