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夢 現ゆめうつつ

* * *  第七夜──妄執  * * *

「──陽子」

 愛している。お前が欲しい。

 腕の中の温もりを、壊れんばかりに抱きしめる。伴侶は薄く笑み、尚隆に身を委ねた。
 どんなに深く口づけても、どれだけ強く抱きしめても、腕の中の女は己のものにはなりきらない。愛しい女は、隣国の王。その身を天と民に縛られる。分かっていながら伴侶に望んだ。それなのに──。

 お前の全てが欲しい。俺だけのものにしてしまいたい。

 そう願ってしまう、己の業の深さ。

 果てて眠る伴侶の顔を眺める。無防備に曝される幼さの残る寝顔。このひととき、女王は己だけの女になる。そう、夜が明けるまでの、ほんのひとときのみ。それを、永遠にしたいと望む己がいる。

 陽子。

 胸で呼びかけて、そっと頬に手を触れる。

 伴侶を己だけのものにする術を、尚隆は知っている。

 静かに身を起こす。そして、愛用の剣を取り上げる。握った柄の冷たさが、昏い欲望の罪深さを伝える。いつもよりずしりと感じるその剣の重みは、一国を預かる王が犯してはならぬ罪そのもの──。

 そんなことは知っている。分かりすぎるほどに分かっている。

 胸でそう呟いて、静かに剣を抜く。その右の手には、惑いも震えもない。やおら剣を構える。そのとき、慶国秘蔵の宝重が、青白く光った。

 輝きを増す水禺刀に導かれるように、眠れる女王が、ゆっくりと目を開ける。尚隆は構えた剣もそのままに、その宝玉のような瞳が狂気に満ちた己を映す様をじっと見つめていた。
 尚隆を認めた瞳が、僅かに見張られる。それから、伴侶は妖艶に笑んだ。口角を上げた朱唇が、おもむろに開かれる。

「──何をしようとしているか、分かっているのだろうな?」

 重々しいその声は、いつもの伴侶のものではない。それを承知の上で、尚隆は簡潔に即答した。
「無論だ」

「諸共に堕ちて本望か?」

 瑞々しい唇が歪んだ笑みを浮かべる。尚隆を見つめる翠の瞳は、底知れぬ深い湖のようだった。これは、己の知る女ではない。そう思いながらも、尚隆は黙して頷いた。二つの国が、同時に滅ぶ。その重い事実が尚隆の決心を揺らすことはない。

「──では、やってみるがよい。お前に、耐えることができるなら」

 くすりと笑い、伴侶の顔をした誰人は、再び目を閉じた。その目が瞬きを繰り返す。そして、もう一度開かれた時──。

 伴侶はやはり僅かに目を見張る。それから、微かに笑みを浮かべた。澄んだ瞳に見つめられて尚、尚隆は怯むことなく剣を振り下ろす。隣国の女王の首を一刀両断し、すぐに己の首をも落とした。

 これで終わりだ。誰にも渡さない。この女は、永遠に俺のもの──。

 最後に胸を占めた、昏い愉悦。凄まじいまでの妄執。延王尚隆は、そして、景王陽子は、足許に潜む昏い深淵に呑まれた。

 の、はずだった。それなのに。

 尚隆は目を覚ましてしまった。辺りはまだ暗く、腕の中に愛しい女はいない。

 ──なんという夢。

 尚隆は身を起こし、両手で顔を覆う。掌にはまだ剣の感触が残っている。隣国の女王の細い首を落とした、あの感触が。

「──陽子」

 伴侶の名を呼んだ。それが魔を払う呪文であるかの如く、何度ともなく。

 これが、己の持つ昏い深淵の正体か。

 暗闇は王の足許に潜む。そして、王の心の隙間を狙う。整った国を壊したくなる衝動を凌いできた。今また、何にも代え難い伴侶を己が手にかけたい妄執を胸に抱く。延王尚隆は唇を歪める。

 まだ、呑まれはしない。

 愛しい女の眩しい笑みを思い浮かべ、尚隆は顔を上げる。輝かしき紅の女王を道連れにはしない。しかし──。

 いつか、この妄執は己を滅ぼすだろう。

 予感めいた想いはいつまでも消えることなかった。

2010.04.29.
 久しぶりの「夢現」でございます。 春にはいつもこんなものを書き散らしてしまいます。 実は桜祭に上げた「慈愛の女神」や「緋色の乙女」の裏で このように暗いものを書いていたのでした。
 「尚隆の夢」なのでこちらに置きましたが、どちらかというと 「夜想」(末声別館)に近いお話でございますね。 けれど、折に触れて出てくる深淵でございます。

2010.04.29. 速世未生 記
背景素材「篝火幻燈」さま
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