景 福
降ってわいたように現れた、招かれざる賓客──雁州国国主延王尚隆。本来ここにいるべきでないその貴人の待遇を巡って、朝から慶東国国主景王の住まう金波宮は密かに緊迫していた。
景王陽子の側近たちは、延麒六太の助言を入れ、延麒を迎えに来た使者としての体裁をなんとか整えた。その陣頭指揮を執った冢宰浩瀚は、そのために溜まった本日の仕事を自室に持ちこんでいた。
* * * * * *
書類の山を片付けながら、浩瀚は溜息をつく。何と目まぐるしい一日だっただろう。隣国の王の気儘な所作に、朝から振り回された。対策案を練っただけの己はまだいい。最も被害を蒙ったであろう主を思い浮かべ、浩瀚は、もうひとつ嘆息した。そのとき──。
「──浩瀚……」
夜陰に紛れるように微かな声がした。浩瀚は筆を持つ手を止めて声のほうを見やる。己の主、国主景王が房室の入口に立っていた。
「主上──。どうなさいましたか、こんな夜更けに」
驚いた浩瀚は、書きかけの書類が並ぶ卓子に手をつき立ち上がった。そして、押し黙り動かない主に、足早に歩み寄る。
「──主上?」
主は声なく入口に立ち尽くし、視線を書類が積み上げられた卓子に向ける。その姿には、いつもの輝かしさがなかった。
「──不甲斐ない王で、申し訳ない……」
主はぽつりとそう言った。萎れた花のようなその様に、浩瀚は苦笑した。
「何を仰っているのです? そんなことを思ったことはございませんよ」
「──浩瀚は、優しいな。私はこんなに浅ましい人間だというのに……」
主は自嘲めいた口調でそう言う。華奢な身体がもっと細くなったように見えた。浩瀚は主を房室の中に導いて榻に座らせると、宥めるように言った。
「私は主上をそのように思ったことは一度もございませんよ。いったいどうなさったのです?」
「──浩瀚は、知っていたのだな」
消え入るような微かな声で、主はそう言った。何を、と訊こうとして浩瀚は気づく。そう、主と隣国の王との秘めた恋を、浩瀚は知っていた。もしかして主は、臣が仕事をしている時間に、己が伴侶と密かに会っていたことを、悔いているのかもしれない。
──生真面目な若き女王。か細き肩に一国を載せ、その重圧に必死で耐えている。王は神である、という民の期待に応えようと努力し続ける主。いつも輝かしい武断の女王が、今は、いたいけな少女のように見え、浩瀚は愛しむような笑みを見せた。
「──主上。王は神であれ、と民は望みます。けれども、主上は王であると同時に、人としての幸せを望んでも、構わないのですよ」
もっと多くのものを望む者も多いというのに、この方は何も望まなかった。王として、どんなものでも望みうるというのに。女王として華やかに着飾ることも、沢山の召使にかしずかせることもしない。
蓬莱には身分制度などなかったと言い放ち、軽装を好み、下働きの者にも気安く声をかけて、台輔に溜息をつかせている。そんな主の望みは、国の安寧。そして──かの方と在ることのみ。
かつて天命なく王を名乗ったあの女は、何もかもを望んだというのに。そして、前国主は王として何も望まなかったが、王の責務を果たすこともなかった。
「──人としての幸せ……。私は、そんなものを望んでいいのだろうか……」
「──少なくとも、延王は御自らの幸せのために主上を選ばれた、とお見受けいたしますが」
俯く主に、浩瀚はそう述べて笑った。稀代の名君と称えられる隣国の放埓な王。その傍若無人な振る舞いに眉を顰めているのは台輔だけではない。それを知ってか知らずか、主は顔を上げて微笑した。
「あのひとは──延王は、強い人だから。何事にも、躊躇うことがない」
そして主はまた下を向く。長い睫毛がその麗しい顔に翳を落とす。
「私は……自分の判断に、そこまで自信を持つことができないんだ……」
浩瀚は隣国の王を思い返す。いつも自信に満ち溢れ、王としての存在感を持ちながらも鷹揚な延王尚隆を。
「──主上、延王は五百年もの間、玉座に君臨なさっておられます。そのお方と今すぐ肩を並べられるようであれば、誰も主上のお傍には寄れません」
主は目を見張り、浩瀚を見上げる。浩瀚は心得たように微笑を見せた。
「人は完璧を嫌うものでございますよ、主上」
主の蒼白だった顔に、色が戻ってきた。朝陽が昇るように、ゆっくりと主は微笑みを浮かべた。それは花がほころんでゆく様にも似ていた。浩瀚は我知らずその美しさに見とれていた。
「──ありがとう、浩瀚」
感謝を告げる主の笑みは、今まで見た中で最も美しかった。浩瀚は思わず主の前に跪き、その華奢な手を押し頂いた。
「──主上、わが主は、あなただけです」
「浩瀚……」
主は驚いたように目を見開いた。その視線を避けるように、浩瀚は主の手を離し、立ち上がった。
「何かお飲み物でもお持ちいたしましょう」
「──待ってくれ、浩瀚」
踵を返し、房室を出ようとした浩瀚の背に、温かいものが触れた。主の声が、驚くほど間近で聞こえた。浩瀚の全神経が、己の背中に集中した。主の華奢な手が浩瀚の背にあてられていた。ゆっくりと主の重みと温もりが伝わってくる。浩瀚は頬に朱が差すのを止められなかった。
「──私のような未熟な者に、そこまで仕えてくれて、ありがとう。感謝してもしきれないくらいだ。お前の忠誠に恥じない王になるよう、努力するよ……」
浩瀚の背に額をつけ、聞こえないくらい微かな声で主はそう言った。浩瀚はその場から動くことができなかった。何か答えなければ──。それだけを考えた。しかし、いつものように言葉をするすると紡ぐことはできなかった。
「──過分なお言葉でございます。主上はそのままの主上でよろしいのですよ……」
「──こんな破天荒な主で、本当にいいのか?」
主は闊達に笑った。もう、いつもの主だった。心を落ち着かせた浩瀚は、ゆっくりと振り返り、恭しく拱手した。
「望むところでございます」
「浩瀚は、変わり者だな」
主は声を上げ、心から楽しそうに笑った。そんな主に浩瀚は微笑を返す。
「さあ、そろそろお休みください。きっと、あの方がご心配なさっておいでですよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと言ってきたから」
事も無げにそう言って、主は鮮やかな笑みを見せた。
かの方は知っていてこんな夜更けに伴侶を外に出すのか。いつまでも純粋で、どこまでも無防備なこの方を。
そう思い、浩瀚は苦笑する。それは、かの方一流の大胆さ、なのだろうか。そのくらいでなければ、この女王を伴侶とすることはできないのかもしれない。しかし──。
(──浩瀚、俺も気づいていたぞ)
延王尚隆は、今朝、そう言って不敵に笑った。浩瀚に釘を刺したつもりなのだろうか。いや、かの方はそれをも承知の上で伴侶の手を離すのだ。だからこそ──。
浩瀚は微かに首を振る。己の分を弁えなければならないことを、浩瀚はよく知っていた。そして浩瀚は穏やかに主を促した。
「もう遅うございます。お堂室までお送りいたしましょうか?」
「ここは私の宮城だ。大丈夫だよ。遅くにすまなかったな。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
頭を下げる浩瀚に、悪戯っぽい笑みを見せ、鮮やかな女王は去っていった。現れたときとは別人のように軽やかな足取りで。残された浩瀚は、回廊でその後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
2005.11.10.
「残月」「所顕」直後のお話になります。その日の夜更けという設定です。
久しぶりの浩瀚です。
「所顕」に続けて書き出しながら、何故だか1ヶ月もかかってしまいました。
私は、陽子主上をいい気持ちにさせる冢宰浩瀚がとても気に入ってます。
──けれど、やはり報われません。しかも、彼はそれをよく解っています。
ごめんね、浩瀚。こんな作者を許してください……。
2005.11.10. 速世未生 記