泣 処
「――延王」
くぐもった密やかな声がした。玄英宮の執務室にて政務を執っていた雁州国国主延王尚隆は、手を止めて呼びかけに応える。
「班渠か。お前が来るなど珍しい。いったい何があったのだ?」
「主上と台輔が金波宮にて賊の襲撃を受けました」
姿なき声は端的にそう答える。尚隆は眉根を寄せて筆を置いた。
班渠は隣国慶の麒麟である景麒の使令。普段は慶主の側に隠形し、その身を陰から護っている。そして慶東国国主景王陽子は武断の王。多少の襲撃に後れを取る人物ではない。事実、班渠は主たちの怪我に言及することはなかった。
ならば、何故護衛役の班渠が、慶主から離れてここにいるのか。考えを巡らせた尚隆は、にやりと笑みを見せる。
「――ほう。お前が景麒を説得したのか?」
「御意」
「よく気が回る。礼を言わねばな」
班渠はそれには答えず笑声を漏らしただけだった。
景王陽子は延王尚隆の伴侶である。無論、公にされているわけではない。その事実を知る者は、互いの側近のみ。そして伴侶の半身である景麒は尚隆を厭っていた。慶の前国主が恋ゆえに身を滅ぼしたがために。いや、それだけではないのだろうが。
延王尚隆は伴侶の護衛に詳細を訊ねつつ、残った書簡を捌く。程なく仕事を全て終え、状況を把握した尚隆は立ち上がった。
「――陽子は、恐らく分かっていないだろう」
低い呟きに、班渠は答えない。ただ、気配を少し揺らしただけだった。尚隆は気を引き締めて口を継ぐ。
「先に戻れ。すぐに行く」
是、という声を残し、使令は気配を消す。尚隆もまた明言したとおり、手早く旅装を調えて雲海の上へと飛び出した。
玄英宮から高岫を越えて金波宮へと向かう。隣国は遠い。海の上から最も脚の速い騎獣で空を駆けても、目指す堂室の露台に辿り着いたのは、夜半過ぎのことだった。この距離をもどかしく思いつつ、尚隆は大きな窓をそっと開く。中へ身体を滑りこませると、麗しき伴侶は愛剣に手をかけていた。
「――熱烈な歓迎だな」
にやりと笑んで軽口を叩く。伴侶は張りつめていた気を緩め、ゆっくりと手を下ろした。そして嘆息とともに声を上げる。
「尚隆。どうして……」
「理由が必要なのか?」
いつも気儘に伴侶の堂室を訪う。いちいち訳など言わないし、訊かれたこともほとんどなかった。伴侶は気まずげに溜息をつく。尚隆は肩を落とす華奢な身体を抱きしめて笑った。
「物騒なことがあったようだな」
伴侶は翠玉の眼を大きく見開いた。その朱唇が動きかけて止まる。そう、己が抜刀しようとしたことに気づいたのだろう。
「――あなたには、敵わないな」
そう言って伴侶は尚隆を見上げ、淡く笑む。そして、今度こそ力を抜いて尚隆に身を預けた。尚隆はその小さな背を優しく叩く。やがて、伴侶は重い口をおもむろに開いた。
「――私は、不甲斐ない」
「無茶ばかりするからだ」
笑い含みの即答にいつものような反論はない。強がる余力もないようだ。常に傍を離れぬ護衛の班渠が自ら現れるわけだ、と尚隆は納得する。伴侶の頭を撫でて、尚隆は笑んだ。
「随分と弱っているようだ。来てよかった」
耳許でそっと囁く。伴侶は訝しげに顔を上げた。瞳の奥に隠す闇が露になる。王の隙を狙う昏い闇が、伴侶を苦しめている。尚隆はその視線を捉え、掛け値なしの本音を告げた。
「――あまり心配をかけるな」
「ごめんなさい。でも……」
伴侶は小さく呟いて尚隆の肩に頭をつける。尚隆はわななく細い肩を強く抱き寄せた。
宮の中での襲撃は、景王陽子をかなり苦しめたようだ。王と知って、しかも血を厭う宰輔といるところでの所業は、意図的なものだろう。向けられた明らかな悪意に痛手を負いながらも、王は臣に弱みを見せるわけにはいかない。例え臣下が感づいていようとも。そう教えたのは尚隆だ。互いに王なればこそ。延王尚隆は登極当時たびたび景王陽子に贈った言葉を口にする。
「お前は王だ」
例え臣がそれを打ち消したとしても。例えお前がそれを信じられなくなったとしても。尚隆の揺るがぬ声に、伴侶ははっと顔を上げた。延王尚隆は景王陽子を見つめ、繰り返す。
「お前が、景王だ」
景麒に選ばれたお前が景王。延麒に選ばれた俺が延王であるように。
伴侶は翠の瞳を大きく瞠る。やがて王の貌をして尚隆を見つめ返し、大きく頷いた。
「――はい」
翠の宝玉は昏い闇を払い、ひときわ強く輝く。尚隆は唇を緩め、頷き返した。それから、思った通りの展開に、深い溜息をつく。伴侶は不思議そうに小首を傾げた。
「――ほら、分かっていないだろう、班渠」
使令は答えの代わりに低い笑い声を返した。尚隆は再び大きく嘆息する。眉根を寄せた伴侶は使令が潜む床を睨めつけた。
「班渠、お前が知らせたのか」
女王の勘気に、班渠は答えない。伴侶はそれを肯定と取ったようだった。たちまち漲る怒気に、尚隆は機先を制す。班渠は、良い働きをしたのだから。
「心配をかけるなと言ったろう。俺にも、景麒にも、だ」
大丈夫だ、と主に言われれば、如何に心配していようとも麒麟は引くしかない。王気の翳りから陽子が負った心痛を思い、景麒は煩悶したであろう。でなければ、班渠が陽子の許を離れて雁に来るはずがない。
それを知らぬ景王陽子は口籠って視線を逸らした。尚隆は笑みを湛えて口を開く。
「景麒はお前に弱い」
「台輔だけではございません」
今まで黙していた班渠が、間髪を容れずに笑い含みの声を上げる。伴侶はまたも眼を瞠った。穿った言に、尚隆は大きく笑う。そう、景麒は陽子に弱い。無論、班渠も、そして尚隆自身も。
「お互いさまだな。俺も、景麒も、班渠、お前も」
そう言って見つめると、伴侶は眉根を寄せて小首を傾げた。お前はきっと気づかないのだろう。その鈍さもまた愛おしい。尚隆は伴侶に笑みを送る。妖魔ながら人の心の機微を知る班渠は、姿を見せぬまま楽しげに笑っていた。
2016.12.02.
小品「泣処」をお送りいたしました。
御題其の二百一「嘘と真」の続編で、其の二百二「泣き処」の尚隆視点になります。
ワンライで「嘘と真」及び「泣き処」を書いたときは状況がよく解らなかったため、
尚隆視点を書いてみましたが、やはりよく解らないままでございます(苦笑)。
久々の尚陽小品、糖度は低めですが、お楽しみいただけると幸いでございます。
2016.12.03. 速世未生 記