灯 火
何も考えたくなかった。身体が動くままに城を出た。疲れた心が望んだものは──。
気づけば高岫を超えていた。陽が落ちて尚、ひたすら東を目指していた。そうして壮麗な宮殿が視界に入った時、尚隆は初めて騎獣の速度を緩めた。
慶東国国主が住まう金波宮。麗しき景王陽子の居城を雲海の上から眺めるのは、これがまだ二度目だ。いつも気儘に振舞ってはいたが、一国の王を訪問するには余りに無礼故、自重していた。
目指す堂室の露台に舞い降りる。点された灯りが柔らかく尚隆を照らす。愛しい伴侶はあの中にいる。尚隆は足早に窓に向かった。直接窓辺から訪ったのは、ただ一度きり。無論、それだけのことをする理由はあった。だが──。
そのとき、己が何をしたか。思い出すと身が震える。
堂室の主は、温かく迎えてくれるだろうか。不躾な訪れを、厭うだろうか。微かな逡巡に、窓を開けかけた指が止まる。そんな感情を持ち合わせていたのか、と尚隆は独り苦笑した。それでも。
陽子、お前に会いたい。
尚隆はそっと窓を開いた。微かな音に気を尖らせた女王は、水禺刀に手をかけ、覇気漲る貌で窓を見つめている。けれど。
「──尚隆」
一言呟くと、伴侶は身に纏う緊張を解いた。そして、安堵に満ちた笑みを浮かべる。尚隆はもう躊躇わなかった。そのままきつく抱きしめる。そして、温かな身体と芳しい香りを確かめた。
「尚隆?」
戸惑う伴侶が再び尚隆の名を呼ぶ。号でも字でもない、真の名を。それだけで、凍てつく心が融けていくような気がする。が──。
今、俺を見るな。
心でそう呟くと、腕の力が増した。少し苦しげに喘いだ伴侶は、それでもされるがままになっていた。
やがて、伴侶の小さな手が尚隆の背に回された。いつも優しく尚隆を抱きとめる細くしなやかな腕は、ただただ温かかった。
「──お前は、温かいな」
我ながらさぞ情けない貌をしているだろう。
そう思いつつ、掠れた声で囁いた。伴侶の小さな手が尚隆の頬に伸ばされる。笑みを浮かべた翠玉の瞳が、真っ直ぐに覗きこんできた。
「あなたは、冷たいね」
素直な返しに唇を緩める。それから、その朱唇にそっと口づけを落とす。身も心も温めてくれた伴侶へ、感謝を籠めて。唇を離すと、伴侶は優しく微笑んだ。
「温かいお茶でも淹れようか?」
薄い夜着ごしの温もりは、尚隆の官能を大いに刺激した。にやりと笑い、尚隆は伴侶の申し入れを退けて率直に己の想いを伝える。
「──温かいお前のほうがよい」
伴侶の応えを待たずに唇を塞ぐ。甘く長い口づけに熱を託して。戸惑いつつもぎこちなく応える伴侶に笑みを送る。年若き伴侶は、滑らかな頬を桜色に染めた。抱き上げて見つめると、伴侶は尚隆の肩に頭を預け、小さく囁いた。
「──冬の匂いがする」
言われて初めて気がついた。凍てつく空を駆け抜けてきた。ただ、心の赴くままに。そして、褞袍すらも脱いでいないことに改めて気づき、尚隆は低く笑った。
「雁はもう雪が降っているからな」
「もう、冬なんだね……」
微かな声が胸を温める。
そう、お前がいなければ、冬はいつまでも終わらない。お前が俺を温める。そして、お前こそが、この果てしない昏い闇を照らす唯一の灯──。
華奢な身体を抱きしめて、尚隆は心からそう思った。
2010.02.03.
拍手其の百七十二「冬来たりなば」の尚隆視点をお送りいたしました。
ずっと書きたかったのですが、尚隆の口が重くて纏まらなかった小品でございます。
この後、尚隆は躊躇なく雲海の上から訪れるようになるのでした。
短いながら主流のお話でございます。
お楽しみいただけると嬉しく思います。
2010.02.03. 速世未生 記