裏 話
本日の仕事を全て終えて、景王陽子は私室に戻った。もう弾む心を隠す必要もない。陽子は微笑んで窓を開けた。心地よい波の音にしばし身を預ける。潮騒は、いつも優しく陽子を包んでくれる。そう、愛しい伴侶のように。
「尚隆……」
そっと恋しいひとの名を呼ぶ。遠く離れて住まう我が伴侶が、今宵は同じ宮の中にいる。そう思うだけで唇に笑みが浮かび、心が浮き立つ。そんなとき、
扉を叩く音がした。どうぞ、と答えると、静かに扉が開かれた。陽子は破顔して訪問者を迎え入れる。鈴と祥瓊が、酒と酒肴を手に現れたのだ。
内宰の叛乱の後、麒麟しか知らなかった伴侶の存在を側近に打ち明けた。皆は驚きながらも陽子の恋を認めてくれた。そして今日、鈴と祥瓊は、伴侶を迎える陽子のために、密かにもてなしの準備をしてくれたのだ。陽子は二人に感謝の言葉をかけた。
「ありがとう。助かるよ」
「──今まで、どうやってお客さまをもてなしていたの?」
持ってきた物を卓子に並べながら、祥瓊が不思議そうに問う。鈴も隣で頷いている。陽子はその尤もな質問に、小声で応えを返した。
「もてなしようがないじゃないか」
「──呆れた!」
「そういう問題じゃないでしょう」
二人に口々に責められて、陽子は黙って肩を竦める。夜半にこっそり忍んでくる伴侶の存在は、今までずっと秘められていた。側近にも友人にも言ったことがなかったのだから、もてなしたことなどない。しかも、会いたい切なさと、会えた喜びで、陽子の心はいつもいっぱいいっぱいだったのだ。
「もしかして……いつもの夜着のままお迎えしているんじゃないでしょうね?」
「──」
腕を組んで睨めつける祥瓊に、陽子は返す言葉もなかった。信じられない、という呟きが二人の口から溜息とともに漏れた。陽子はあさっての方角を見る。すると、祥瓊はにやりと不気味な笑みを見せた。
「祥瓊、まさか……」
言って陽子は後退る。と、鈴に腕を掴まれた。陽子はたらりと冷や汗を流す。祥瓊は持参した様々な羅衫を広げて見せた。それは文句なく女王らしい豪奢な夜着であった。
「祥瓊……それを私に着ろと言うのか?」
答えの分かっていることを情けない声で訊く。無論、祥瓊はにっこりと笑って頷いた。
「美しく装うことも、重要なおもてなしのひとつなのよ」
軽く首を横に振り、陽子は祥瓊の言葉を否定した。夜着を華やかにすることがおもてなしだなんて、何かが違うような気がする。が、それを口にするのは拙い、と陽子にも分かっていた。なので陽子は控えめに答えた。
「──あのひとは、私にそんなことを求めてないと思うけど」
だって、あのひとなら綺麗な女のひとなんて沢山知っているはずだから。陽子がそう続けると、祥瓊と鈴はきっと目を吊り上げた。
「陽子より綺麗な女なんてそういないわよ!」
「そんな男っぽい恰好をしているからそう思うのよ!」
「え……」
二人の剣幕に、陽子は言葉を詰まらせた。自分を綺麗だと思ったことなどないが、それも今言ってはいけないような気がする。
陽子が黙っていると、二人は瞳を煌かせ、怒涛のように語り出した。女王の威厳とは、から始まったその話は、遂に男性の気を引く衣装とは、に至る。
「とにかく! もう少しまともな恰好をしなさいよ!」
「陽子だけならともかく、私たちが知っていて、そんな恰好で延王をお迎えするなんて、耐えられないわ!」
鈴と祥瓊は声を荒げて陽子を睨めつけた。つくづく墓穴を掘ったものだ、と陽子は深い深い溜息をつく。それから小さな声で、けれど、断固として二人に告げた。
「──嫌だ」
ずっと袍を着続けてきた。逃亡中は勿論、玄英宮に匿われたときにも長袍を提供されたのだ。それは延王尚隆一流の茶目っ気だったらしいのだが。
「どうして?」
「──どうしても」
声を揃える鈴と祥瓊に、陽子は頑なに首を振る。今更そんな恥ずかしい恰好はできない。ましてや伴侶の気を引くためだけに女らしい装いをするなんて、思っただけでも頬が赤くなる。そんな本音を言っても、きっと分かってはもらえないだろう。
「──そう」
「それならば、私たちにも考えがあるわ」
二人は氷のように冷たい声でそう宣言した。陽子は横を向いたまま、それを無視する。祥瓊の声が、更に冷たくなった。
「これを全部持っていって、ご本人に選んでいただくことにするわ」
「ちょ、ちょっと待って!」
陽子は思わず叫び声を上げた。何てことを言うんだ、と続けることはできなかったが。脳裏に延王尚隆の人の悪い笑みが浮かぶ。悪戯好きな伴侶が、いったい何をするか。想像したくないことであった。しかし。
「陽子と話しても埒が明かないもの」
祥瓊は尖った声を残して踵を返した。無論、鈴もそれに続く。陽子は足早に出て行こうとする祥瓊に縋りついた。が、祥瓊は邪険に陽子を振り払う。陽子は、その場に立ち尽くした。
(ほう……)
唇を歪めて笑う伴侶の顔が胸を過る。延王尚隆は、女と知ってわざわざ陽子に長袍を用意させたこともあるひとだ。そんな気紛れな王は、色も素材も様々な数多の羅衫を見て、どんな悪戯を思いつくのだろう。
一番派手なものを選んで大笑いするかもしれない。いや、あのひとの考えることは、いつも理解に苦しむことばかりだ。もっと陽子の意表をついたことをするかもしれない。
そんなふうに想像すればするほど、嫌な汗がだらだらと流れてくる。拳を握り締めて震えていた陽子は、とうとう観念した。
「分かった! 分かったから、それだけは止めて!」
陽子は両手を合わせて二人に懇願した。祥瓊は鈴と目を見交わし、我が意を得たりといった笑みを浮かべる。
やられた。完敗だ。
陽子はがっくりと肩を落とした。そんな陽子に頓着することなく、女王の二人の友は嬉しげに様々な夜着を広げ、和気藹々と乙女らしいお喋りを繰り広げる。
「やっぱりこれがいいと思うけど」
「う〜ん、こっちのほうがよくない?」
「組紐はやっぱり瞳に合わせたこっちの翡翠よね」
「あ、賛成! それがいいわ」
その後、景王陽子は瞳を輝かせた鈴と祥瓊の着せ替え人形と化した。豪奢な羅衫を着せられ、美しい翡翠の房飾りがついた組紐で髪型を整えられていく。政務はとうに終わったというのに、未だ仕事を続けさせられているような心地がする。そう思うと情けなさが込み上げる。二人は顔を蹙めて陽子を窘めた。
「──そんな貌しないの」
「笑顔でお迎えするのよ」
そんなこと、無理に決まってるじゃないか。
胸でそう呟いて、私室にて女王らしい装いをさせられた景王陽子は深い溜息をついたのだった。
2009.01.10.
短編「裏話」をお届けいたしました。
年末年始にかけて拍手連載した「私室にて」〜「乙女の溜息」〜「攻防の果てに」を纏めた
作品でございます。
「黄昏〜」後ひと月ほど経った頃を想定して仕上げました。
私の作品でいうと中編「所顕」後のお話になります。
いったい何の裏話? という疑問も残りますね。しかも無駄に長いし……。
はい、本編も近いうちに出せたらいいなと渇望しております。
年始から頭が壊れたようなお話で失礼いたしました。
2009.01.10. 速世未生 記