「慶国小品」 「玄関」 

墓 穴

「──ああ、えらい目にあった」
 襦裙を持った祥瓊から逃げ切った陽子は安堵の溜息をつく。陽子に付き従う大僕虎嘯は豪快に笑う。
「そんなに笑わなくてもいいだろう」
「悪い悪い」
 眉根を寄せて睨めつける陽子に、虎嘯は応えを返し、また笑う。憮然とした顔で執務室に向かう陽子に、後ろから現れた鈴が声をかける。
「どうしたの、陽子」
「どうもこうもないよ。さっき祥瓊が──」
 顔を顰めて祥瓊との追いかけっこの詳細を語る陽子に、鈴もまた笑みを零す。虎嘯はまだ笑っていた。
「それは仕方ないわねえ。祥瓊は陽子を飾ることに生甲斐を感じているんだから」
「──私は迷惑なんだけど」
「女王さまなんだから、もう少し綺麗にしていればいいのに」
「鈴までそんなことを言うのか?」
 陽子は口を尖らせ心外そうに鈴を見つめる。鈴は失笑した。
「陽子は美人なんだから、ちゃんと襦裙を着ないと勿体ないわ」
「──鈴」
「な、なに?」
 陽子はふと足を止め、輝かしい眼をじっと鈴に向けた。陽子に見つめられた鈴はどぎまぎして口籠る。
「私は、鈴のほうが、何倍も愛らしいと思うよ」
 見る間に鈴の頬が赤く染まる。虎嘯はやれやれと大きな肩を竦めた。
「ねえ鈴、可愛らしい鈴が襦裙を着るように、私は袍を着たいんだ。鈴なら私の気持ちを分かってくれるよね」
「う、うん……」
 陽子の真摯な眼に囚われた鈴は小さく頷く。陽子は満面の笑みを鈴に向け、止めを刺した。
「鈴は私の味方をしてくれるよね」
「──もちろんよ」
 鈴は恥ずかしげに陽子を見上げ、同意した。陽子の策に嵌まりきった鈴を見て、虎嘯はそっと額を押さえた。そのとき。

「──そう。そんなに袍を着たいの」

 背後から聞こえる静かな声。恐る恐る振り返る三人の前には、紫紺の双眸を燃え上がらせた祥瓊が立っていた。陽子は引きつった笑みを祥瓊に向ける。
「──祥瓊、分かってくれたのか」
「ええ、よく分かりました。じゃあ、早速、袍を着に戻りましょう」
「もう着てるけど……」
「そんな官服なんかじゃなく! ちゃんとした! 長袍を! お召しくださいませ、主上!」
 夜叉のように凄惨な笑みを見せる祥瓊に、誰も逆らうことはできなかった。陽子を引きずるように歩く祥瓊の後に、鈴と虎嘯は黙って従った。

* * *    * * *

 なかなか現れぬ主を待っていた冢宰浩瀚は、執務室の扉が開いた途端、苦笑を見せる。そこには、文句のつけようがなく凛々しい美青年が立っていた。
 鮮やかな長袍を纏い、王に相応しい典雅な装いをした男装の麗人は、情けない顔をして俯く。そんな主の後ろには、勝ち誇ったように微笑む祥瓊がいた。更にその後ろには、困ったように首を振る鈴と、肩を竦めた虎嘯。その更に後ろには、蜜に群がる蜂のように、沢山の女官がひしめいていた。
 状況を目で訴える虎嘯に、浩瀚は得心がいったと目で返す。そして、真面目くさった顔を主に向けた。
「たいへん漢前でございますよ、主上。──この様子では、金波宮に後宮を用意しなければなりませんね」
「──これ以上、私を脱力させないでくれ、浩瀚……」
「自業自得でございますよ、主上」
 悄然と俯く陽子に、浩瀚は笑い含みに諫言する。
「側近までを誑かすから、このような目に合われるのです。自戒なさいませ」
「──肝に銘じる」
 この上もなく漢前な女王は、深い深い溜息をついた。主のそんな様子を、怜悧な冢宰は、肩を震わせて見つめていた。


2006.03.07.
 絳英紫極さま主催「後宮祭」参加作品第二弾をお送りいたしました。 クレームのついた書類の修正が終わり、解放感のあまり書き流した小品です。
 祥瓊を出して鈴を出さないのもな〜と思って書いたのです。 それなのに、なんだか怖〜い祥瓊になってしまいました。あれ?

2006.03.07. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「慶国小品」 「玄関」