「慶国小品」 「玄関」 

休 日

「班渠、ちょっと出かけてくる」
「はい、お供いたします」
 景王陽子の呼びかけに答え、班渠は足許から姿を現した。しかし、女王は片手を軽く振り、思わぬことを言った。
「いや、今日は、前から驃騎に頼んでいたから、お前は休んでいていいぞ。では行ってくる。──驃騎」
「はい」
 短い応えとともに、女王の足許から赤い豹が現れた。女王は驃騎を促し歩き出す。同僚は班渠に軽く頭を下げ、女王に従って歩いていった。
 班渠は隠形することも忘れ、呆気にとられて女王の後ろ姿を見つめた。女王に付き従うように、と主から命ぜられていた。それから常に女王とともにいた。それが当たり前と思っていた。女王に置いていかれたような気がしている自分に、班渠は驚いていた。
 休め、と女王は命じたのだ。だから休まなければならない。休んで何をするのか? 班渠は少し考える。
 しかし、何も思い浮かばなかった。いつも何をするか分からない破天荒な女王とともにいる。その緊張感に、班渠はすっかり慣れきっていた。
 ふむ……手持ち無沙汰だ。だが、休まなければならない。休むとは、どうすることなのだろう。班渠はだんだん頭がくらくらしてくるのを感じた。休むとは、なんて疲れるのだろう──。

* * *    * * *

「──班渠」
「主上──お帰りなさいませ」
 耳許で女王の涼やかな声がした。眠っていたのか、と班渠は慌てて飛び起きる。目の前に女王の明るい笑みがあった。
「ゆっくり休めたようだな。よかった」
 笑みを見せる女王からは、何やらいい匂いがした。心惹かれるその匂いはなんだろう。班渠は首を傾げる。女王はふわりと笑みを浮かべ、懐から何かを取り出した。
「──土産だ」
「土産、でございますか?」
「うん。気に入ってもらえるといいのだけれど」
 そう言って、女王は班渠の首にそっと取り出したものをかけた。抗いがたい好い香りが漂い、班渠は陶然とした。けれども、使令としての誇りが、その香りに溺れることを拒む。葛藤する班渠を訝しみ、女王が小首を傾げる。
「──班渠、どうした?」
「大、丈、夫、で、ござい、ます……」
 そう応えを返しながら、全く大丈夫でない己を感じた。女王の気遣わしげな声がだんだん遠くなっていった。そして意識が途切れた。

* * *    * * *

「──話が違うじゃないか、景麒」
「──私は一般的なことを申し上げたに過ぎません。驃騎、お前が付いていながら、主上にお伝えしないとは……」
「私は何ともなかったものですから」
 耳許で言い争う声がした。誰だろう、と班渠はぼんやり考える。ああ、あの好い香りがしなくなったのは残念だ。意識が次第にはっきりしてくる。頭を撫でる小さな手と、頭の下の柔らかな感触と温もりを感じた。

 小さな手と、温もり? 

 班渠は目を開ける。
「──あ、気がついた」
「ようございました」
「大丈夫か?」
 三者三様の声が響く。頭を擡げた班渠は、心配げに見つめる主と、呆れたように覗きこむ同僚を見つけた。それから女王の安堵に満ちた笑みが目に入り、班渠は再び飛び起きる。
「──主上」
 頭を撫でる小さな手も、頭の下の温もりも女王のものだった。班渠はなんと女王の膝枕で昏倒していたのである。もう一度倒れそうになるのを、班渠は必死に堪えた。
「も、申し訳ございません!」
「いいよ、私が悪かった。班渠があの玉に酔うなんて、思ってもみなかったんだから」
 そう言って女王は主をじろりと睨んだ。その視線を受けて、主は驃騎を睨めつける。同僚は肩を竦めるような仕草をしただけだった。

 ──玉だったのか。

 班渠は納得する。
「──ですから、私は大丈夫だったのです」
「主上は妖魔は何が好きか、とお訊ねになっただけでございましょう」
「──だって、班渠にお礼をしたいと言っても、お前は素直に聞かないだろう。使令が王を守るのは当たり前だと怒るに決まってる」
 驃騎が言い訳し、主が諫言し、女王は不機嫌に応えを返す。女王の言のとおり、主は憮然と答える。
「当然のことです」
「ほら、やっぱり怒る」
 女王は主から目を逸らし、むっつりと続ける。班渠はそんな女王に目を向けた。
「──そのお気持ちだけで充分ですよ、主上」
「そうか? 何かお礼がしたかったのになあ」
 そして女王は眉間に皺を寄せて考えこむ。主がそんな女王にまた諫言する。
「──主上、何もせずに大人しく、王宮でお仕事をなさってください。それが、一番、臣を喜ばせるのですよ」
「景麒……主に向かってそれは、あまりに失礼じゃないか?」
「いいえ、主上にはこれくらい、はっきり言わなければ理解していただけません」
「お前はほんとに麒麟なのか」
「もちろん麒麟でございます」
 眉根を寄せる女王に、主は断固と言い張る。不服そうに言い返す女王に、主は一歩も引かない。激しい言い争いを始めた女王と宰輔から、班渠と驃騎はそっと離れた。
 ──純粋に礼がしたいという女王には悪いが、主の言うとおりだ。

 お願いですから、執務室でお静かにお仕事をなさってください。

 そう口に出せない班渠は、驃騎と目を合わせ、密かに溜息をついた。

2006.06.14.
 「刻印」に詰まって、つい書き流したものを、改稿して持ってまいりました。 御題其の二十「思わぬ休日」の続きでございます。如何でしたでしょうか。
 衝撃を受ける班渠に笑撃を受けてしまいました。 班渠、思ったより真面目だったわ。 お気に召していただければ嬉しいです。

2006.06.14. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「慶国小品」 「玄関」