玉 響
慶東国王都堯天。国主景王の住まう金波宮では、今日も少ない人数で働く人々が忙しげに走り回っていた。その中の一人である、景王陽子の側近、女史祥瓊。冢宰から預かった追加の書類を持った祥瓊は、景王陽子の執務室の扉を叩く。が、応えはなかった。しばらく扉の前で待っていた祥瓊は訝しげに首を傾げる。
「──陽子、いないの?」
女王の側近であり、友人でもある祥瓊は、気安く声をかけ、扉を開く。主はそこにはいなかった。
「──どこへ行ったのかしら」
祥瓊は堂室に足を踏み入れる。書卓の上には案件の書類が積み上げられ、その横の小卓には茶器が並べられていた。
「お湯でも取りに行ったのかしらね……」
そうひとりごち、祥瓊は微笑む。この仕事の量では一息入れたくなっても仕方ないだろう。陽子は最近とみに眉間の皺が深い。お茶菓子が必要だろうか。そう思い、踵を返そうとしたとき、祥瓊は気づいた。床に落ちている丸めてくしゃくしゃになった紙に。
「何かしら……」
祥瓊はその紙を拾い上げ、広げてみる。主の下手くそな字が書き連ねてあった。たどたどしいその字に祥瓊は苦笑する。そして、その余白に書き流されたものに目を向ける。
「──これは何?」
縦書きではない。走り書きのような、横書きのそれは、字のようでもあり、模様のようでもある。初めて目にするものだった。
陽子は、蓬莱人だった──。
理解できないそれを見て、祥瓊は溜息をつく。普段はそんなことを忘れている。それくらいに、陽子はこちらに馴染んでいるように見えた。
もちろん、王のくせに自ら茶を淹れたり、気安く下官に声をかけたり、男物の袍を着てほっつき歩いたりと、その行動は変わっている。気儘な主に、金波宮の誰もが呆れたり苦笑したりしている。けれども、何事にも一生懸命で、生真面目な女王は慕われていた。元公主の祥瓊も、なんて破天荒な子なんだろう、と思いつつ、陽子に惹かれずにはいられない。
改めてその紙に書かれたものを見つめる。──蓬莱の言葉、なのだろうか。神籍に入って、話し言葉に不自由することはないが、字を読んだり書いたりは難しい。陽子はよくそう言って溜息をつく。海客の鈴も同意していた。──陽子は、蓬莱が恋しいのだろうか。
「──祥瓊、どうした?」
急に主の声がした。物思いに沈んでいた祥瓊は驚き振り返る。
「ああ、陽子。浩瀚さまに頼まれて、追加の書類を持ってきたのよ。どこに行っていたの?」
「お茶を飲もうと思ったら、お湯が切れていたから」
予想通りの答えに祥瓊は微笑む。陽子は書卓に積まれた新たな書類ではなく、祥瓊の手にある紙を見つめた。
「──祥瓊、それ」
「床に落ちてたのよ。相変わらず下手な字ね」
「それはないだろう。これでも大分ましになったんだぞ」
祥瓊は落ちていた紙を書卓に載せた。それから、不平を言う主の手からお湯を受け取り、手早く茶を淹れた。その茶を勧めながら問いかける。
「ねえ、それ、何? 陽子の国の字なの?」
「ううん、これはあちらの異国の字だよ」
「異国の字?」
意外な答えに祥瓊は小首を傾げる。陽子は軽く頷いて淡々と説明を続けた。
「うん。あちらにはね、たくさんの国があるんだけど、この英語という言葉を使う人が多いから、学校で習うんだ」
「──へえ。面白いわね。で、異国の言葉で、なんて書いてあるの?」
祥瓊は純粋な興味でそう訊いたのだが、陽子はばつが悪そうな顔をして沈黙した。興味を引かれた祥瓊はさらに訊ねる。
「やあね、そんなにまずいことを書いたの? まさか、台輔の悪口とか」
「──内緒」
小さな声でそう言うと、陽子は照れたように微笑んだ。女の祥瓊でさえも見とれるような、美しい笑顔だった。いつもの祥瓊ならば、ここで諦めたりはしないのに、陽子の笑顔に魅せられ、二の句が継げなかった。そんな祥瓊に陽子は悪戯っぽい笑みを向ける。
「──祥瓊、お茶菓子、食べたくない?」
「そうくると思った。ちょっと待ってて。調達してくるわ」
祥瓊も笑顔を見せた。陽子の眉間の皺が取れたことを、祥瓊は嬉しく思った。
「ついでに鈴も呼んできて。一緒にお茶にしよう」
「分かったわ」
祥瓊は明るい笑顔を残し、小走りに堂室を出て行った。その後ろ姿を見やり、陽子はほっと息をつく。
「──うまく誤魔化せたかな」
陽子は捨てたはずの紙をもう一度広げてみた。筆で書いた横書きの筆記体は、掠れて潰れてよく読めない。
「やっぱり筆で横書きは無理があるな……」
書きにくかったしな。そう呟いて、陽子は思いつくままに書き連ねた文字をそっとなぞる。切ない想いを籠めて。
I love you,
I need you,
and I miss you……
恋しいのは、蓬莱ではない。恋しいのは、あのひと。遠く離れた伴侶を想う、口に出せない言葉。口に出せば翻訳されてしまうから──。
「──ごめんね、祥瓊。まだ話すことはできない……」
大切な友人に、聞こえないくらいの声で、そっと詫びる。誰にも内緒。隣国の王との秘めた恋は、口に出してはいけない。他の誰にも読めないその字をもう一度をなぞると、陽子はその紙を丁寧に小さく破いて捨てた。
やがて、お茶菓子を持った鈴を連れて、祥瓊が戻ってきた。陽子は束の間の休息を、熱い茶と、美味しい菓子と、気の合う友人との他愛ないお喋りで楽しんだのだった。
2005.11.04.
「風の万里 黎明の空」と「黄昏の岸 暁の天」の間のお話です。
私のお話で言えば「残月」「所顕」の前ですね。
陽子がまだ「秘密の恋」と申しておりますので。
今朝、ふと思いついて散文を書き連ねていたら、浮かんだお話です。
消えないで〜と心で叫びながら、一心不乱に書き留めました。
黒い背景が似合うものばかり書いていたので、違った感じのものを書きたかったのかも……。
2005.11.04. 速世未生 記