藪 蛇
「陽子、待ちなさい!」
「勘弁してくれ!」
「いいえ、今日こそ……」
金波宮、王の居室がある正寝。その回廊に、けたたましい足音とともに怒声が響く。緋色の髪を靡かせて逃げる国主景王を、紺青の髪を振り乱した女史祥瓊が追いかける。その手にある鮮やかな色の襦裙。それを見た途端、麗しき女王は脱兎の如く逃げ出したのだった。
信じられない、と祥瓊は陽子を詰る。女王として誰よりも綺麗に装うことができるというのに、陽子は常に袍を纏う。元公主である祥瓊が腕によりをかけて飾ろうとしても、いつもそれを拒む。
陽子は美しく装うことを、何故厭うのだろう。祥瓊は不思議に思う。女であれば自然に望むことであろうに。息を弾ませながら走る祥瓊は、ついに転んでしまった。
「──祥瓊、大丈夫か」
心配そうに戻ってきた陽子の手を、祥瓊はぐっと掴んだ。不敵な笑みを見せる祥瓊に、陽子は溜息をつく。
「転んでも、ただじゃ起きないな、まったく」
「言っっておくけど、わざとじゃないわよ」
「分かってるけど。──襦裙は動きにくいから、嫌いなんだよ」
情けなさそうに呟く陽子に、祥瓊は勝ち誇った笑みを見せた。
「女王の装いには国の威信がかかっているのよ。さあ、大人しくこれを着なさい」
「──勘弁してくれよ」
「主上、たまには我ら臣の目を楽しませてくださってもよろしいのでは?」
笑い含みに話しかけられ、陽子は目を上げる。それは、二人の追いかけっこをずっと見守っていた左将軍桓魋だった。その後ろには大僕虎嘯がいて、笑いながら頷いた。陽子は不満げに二人を睨めつける。
「桓魋。何故、私がお前たちの目を楽しませなければならないんだ? ──それは私の役目ではないだろう?」
「と、申しますと?」
不思議そうに訊ねる桓魋に、陽子はしたり顔で笑みを返す。
「ここに艶やかな花がいるじゃないか。金波宮きっての美しき女史が」
「──なるほど」
「確かに」
陽子の言葉に、桓魋と虎嘯は相次いで頷いた。その反応に満足した陽子は、極上の笑みを祥瓊に向ける。
「──な? だから美しい装いは、祥瓊に全面的に任せるよ。そのほうが王宮も落ち着くだろうから」
その美しくも凛々しい笑顔に、祥瓊は思わず見とれてしまった。不覚にも、頬を染めて言葉をなくした祥瓊に、陽子は更に駄目押しをする。
「祥瓊の華やかな美しさに、私は日々癒されているんだよ。──浩瀚が待ちくたびれているだろうから、もう行くよ。じゃあね」
さっと踵を返すと、陽子は颯爽と去っていった。苦笑を浮かべた虎嘯が少し頭を下げ、そのあとに続いた。残された祥瓊は、はっと我に返り、深々と溜息をついた。
「ああ、また逃げられた……」
「主上のほうが、一枚上手だな」
桓魋がくすりと笑みを向けてくる。祥瓊はつんと顔を逸らし、冷たく言い放った。
「──その辺の男より、陽子のほうがずっと漢前だわ」
「──薮蛇だな」
麗しき女史に、その辺の男、と断定された将軍は、苦笑して頭を掻いた。
2006.03.06.
絳英紫極さま主催「後宮祭」参加作品です。
参加しませんか、とのお誘いに図々しくも乗ってしまいました。
最近ずっとケツメイシの「さくら」が頭の中をぐるぐるしていました。
「さくら」に誘発されたように末声風味のお話を書いていました。
こんな暗〜い気持ちで「後宮祭」の参加は無理……と思っていたのです。
けれど、そっちを書き上げてしまったら、気分は俄然あげあげモード。
突発的に書き流しました。
お祭ムードを楽しんでいただけたら嬉しく思います。
2006.03.07. 速世未生 記