家 苞
視界の端に赤いものが閃いた。しかし、冢宰浩瀚は足を止めることなかった。振り返ることもしなかった。何事もなかったかのように目的地へと足を運ぶ。そうして浩瀚は空の堂室を見て微笑したのだった。
国主景王の執務室の中へと歩を進める。書卓の上には御璽が押印された書簡がきちんと揃えて積まれていた。几帳面な主らしい仕事ぶりだ。浩瀚は唇を緩めつつ新たな書簡を書卓に置いた。そのとき。
後ろから慌ただしい足音が聞こえた。口許を引きしめた浩瀚はゆっくりと振り返る。血相を変えた大僕虎嘯が駆け寄ってきた。その姿を認め、浩瀚はゆったりと首を横に振る。虎嘯はがっくりと肩を落とした。浩瀚は微笑する。そうして虎嘯の逞しい二の腕を軽く叩いた。
「──そのうち戻られるだろうから」
「それでいいんですかい?」
「まあ、仕方なかろう」
仕事は終えられているようだから、と続けると、虎嘯は大きく溜息をつく。それから、ぼそりと呟いた。
「──そういう知恵はついたみてえだな」
思わず漏れた飾り気のない本音。それは、共に武器を取って戦った仲間ゆえの気安さなのだろう。浩瀚はくすりと笑いを零す。途端に虎嘯は口を押さえ、気まずげに頭を掻いた。
こちらで生まれ育った虎嘯でさえ、王宮での生活は窮屈だという。王がいないという蓬莱からやってきた主であれば、尚のことそう思うのだろう。だから、浩瀚は主の多少のお忍びには目を瞑っていた。
虎嘯に慰めと指示を与え、浩瀚は己の執務室に戻った。仕事に限りがつくとすぐに主が心に浮かぶ。今頃どこで何をされているのだろう。主には使令の班渠が憑いているし、水禺刀も持っている。憂慮する余地もないはずなのに、心配が尽きることはない。しかし。
鬱屈して動けなくなる主を見るよりも、王宮を抜け出すくらい元気がある主を案ずる方が己は嬉しいのだ。
そんな本音に苦笑しつつ、浩瀚はまた仕事を続けた。
次に浩瀚が執務室を訪れた時には、宮の主は何事もなかったかのように書卓に向っていた、軽快に筆を動かすその様に屈託は見られない。ささやかな出奔はよい気晴らしになったようだ。
失礼します、と声をかけて、浩瀚は追加の書簡を書卓に置く。何も言う必要はない。そう判断し、浩瀚はそのまま一礼して主の許を辞そうとした。そのとき。
「──ありがとう、浩瀚」
思いがけない謝辞に胸が高鳴った。が、怜悧な冢宰と呼ばれる浩瀚は、そんな胸の内を難なく隠し、表情を作って振り返った。
「いきなりどうなさったのです?」
「私を、見逃してくれたんだろう?」
そう言って主はおもむろに立ち上がる。浩瀚は、主の鮮やかな笑みに釘付けになった。心落ち着けて主の言葉を噛みしめる。そう、あのとき、浩瀚は翻る緋色の髪を見たが、気づかぬ振りをして通り過ぎた。主もまた、気づかれたと知っていたのだ。そう思うと口許がほころぶ。
「やっぱり」
主は小さく呟いて、小卓に視線を移す。つられて目をやると、そこには大きな黄色い葉をつけた一枝が飾られていた。
「お前に、土産だ」
主は笑みを湛え、花器から鮮やかな黄葉を抜きとって浩瀚に差し出した。土産よりも、華奢な手に目がいく。浩瀚は己の邪な心を拱手にて隠し、恭しく黄葉の枝を押し戴いた。
「有り難き幸せにございます」
殊勝にそう言いつつ、手と手が触れるかもしれない、と思う。そんな邪念は、言わずに済まそうと思っていた小言を口から引き出してしまう。
「ですが──」
「お返しの諫言は要らないぞ」
その先を続けることはできなかった。片目を瞑った主が、茶目っ気たっぷりに浩瀚の機先を制したのだ。浩瀚は苦笑する。それから肩の力を抜き、主上には敵いませんね、とだけ告げたのだった。
「──そういえば、どうして黄葉なのですか?」
「以前、お前に紅葉をもらったことがあったからな」
同じものではつまらないだろう、と主は浩瀚の疑問に軽く答えた。
憶えていてくださったのか。
胸が熱くなる。主のそんな優しさは、浩瀚を惹きつけて已まない。浩瀚にとっては、無事に帰城した主の笑みこそが最高の土産であることを主は決して気づかないだろう。それでも、浩瀚は誓いを新たにするのだ。
持てる力の全てを以てあなたをお守りいたします──。
2010.12.25.
「embudai 閻浮提」由旬さま主催「浩陽祭」に今年も参加させていただきました。
昨年書いた小品「気鬱」、小品「秋晴」に微妙に続いている作品其の二、浩瀚視点でございます。
浩瀚、微黒ですね(笑)。
またまた拙作をお受け取りくださった由旬さま、ほんとうにありがとうございました!
2010.12.28. 速世未生 記