気 鬱
「疲れた……」
景王陽子はそう呟いて書卓に突っ伏した。未処理の書類は山積みだが、どうにもやる気が起きない。
執務室には、ぽつりぽつりと下官がやってきて、新たな書類を置いていく。彼らはいつも代わりに御璽押印済みの書類を持ち帰るのだが、書卓に突っ伏す王に声をかける者はいなかった。
ややしばらくして、慌ただしく扉を開ける音がした。伏したまま、駆け寄る足音を聞く。
「陽子、どうしたの?」
「具合でも悪いの?」
心配そうな友たちの声にも、陽子は微動だにしなかった。別に病気なわけではない。王は神なのだから、滅多なことで身体を壊したりしない。
ただ、動きたくないだけ──。
深い溜息がふたつ聞こえた。そして、小さな物音が。かちゃかちゃ、こぽこぽ。じきに馥郁とした茶の香りが立った。
「お茶でも飲んで、ひと休みしなさいね」
そう言い置いて、祥瓊と鈴は出ていった。
心配してくれる人に、ありがとう、の一言も返せないなんて。
自己嫌悪にかられる。それでも、陽子は身体を起こすことができなかった。やがて──。
静かに扉が開く。よく知る気配が慣れた足取りで書卓に近づく。今日はどんなお説教をされるのだろう。そう思いつつも、陽子は身動ぎひとつしなかった。
くすり、と小さな笑い声。そして、背に掛けられた布。それだけで冢宰浩瀚は陽子の傍を離れた。ことり、と小卓に何か置く音がする。それも束の間、怜悧な冢宰は、現われたときと同じように、静かに去っていった。
扉が閉まる音を確かめて、陽子はそっと顔を上げる。小卓の上に置かれた茶杯が、まだ少し湯気を立てていた。その横に添えられた茶菓子の傍に、それがあった。
「これは……」
見事に染まった紅葉の一枝。
陽子はゆっくりと立ち上がる。王宮の庭院の木々は、まだ色を変えてはいない。それでは、これは下界のものか。陽子は唇を緩め、そっと枝を手に取った。季節はもう秋。
己の身は変わらなくても、時は確実に流れている。
陽子は枝を花器に戻し、榻に腰を下ろした。少し冷めた茶を飲み、小さな茶菓子を摘む。身の内に温かな気持ちが流れこむようだった。
「さて、と」
陽子は立ち上がった。書卓に戻り、もう一度、鮮やかな紅葉を見やる。そして、景王陽子は堆く積まれた書類を片付け始めたのだった。
2009.11.22.
「embudai 閻浮提」由旬さま主催「ひとり浩陽祭」参加作品でございます。
祭と聞くと血が騒いでしまうのです。
ちっとも浩陽でなくて恐縮でございますが……。
祭乱入をお許しくださり、このような拙い作品をお受け取りくださった由旬さま、
ほんとうにありがとうございました!
2009.12.05. 速世未生 記