誓 約
「字が上手におなりですね」
百官の長たる冢宰の褒め言葉は、慶東国国主景王の心を温めた。それは、景王陽子が行ってきた日々の努力の成果を認める言葉であった。
景王と呼ばれるようになってから、容姿を褒められることは多々あった。しかし、それは陽子にとっては、常に空々しいことだった。物珍しい赤い髪と翠の瞳を褒められても、嬉しくもなんともない。それは単なる見てくれへの評価であって、陽子の中身はどうでもいいように思え、不愉快でさえあった。
(祥瓊のほうがずっと美人で女らしいし、鈴のほうがずっと可愛らしいのに)
賞賛を受けるたびにそう思う。いつしか陽子はそれを受け流すことを憶えていた。挨拶程度のこと、そう割り切るようになっていた。
だからこそ、怜悧な冢宰の褒め言葉は、陽子にとって、胸に染み入る一言だったのだ。景王陽子はその後の政務を上機嫌で片付けた。
「今日はこれでお仕舞いですね」
「そうか。それでは浩瀚、あとは頼むな」
「はい」
鮮やかな笑みを見せ、景王陽子は颯爽と執務室を出た。冢宰浩瀚はその姿を微笑で見送った。
内殿の回廊を歩いていた女史は、満面笑顔の主の姿を認め、気安く声をかけた。
「あら、陽子。今日はもう終わったの? ずいぶん早いじゃない」
「うん。今日は調子が良かった」
「へえ、陽子でも政務を調子よく片付けることがあるんだ」
女史の衒いのない物言いに、陽子は顔を蹙める。
「ひどいな、祥瓊。私だって少しは成長する」
「どこが?」
「聞いて驚け、今日の私はあの浩瀚に褒められたぞ」
陽子は自慢げに胸を張る。祥瓊は首を傾げた。
「浩瀚さまに? 何を?」
「今日、浩瀚は、私に、『字が上手におなりですね』と言ったんだぞ」
えへんと威張る陽子に、祥瓊は目を見張る。
「──聞き間違いじゃないの?」
「そこまで言うか?」
「だって、陽子の字って……」
「あのな、ずっとこちらにいる祥瓊と違ってな、私は筆で字を書くなど、ほとんどしたことがないんだぞ。少しは割り引いて考えてほしいな」
陽子は腕を組み、祥瓊を睨めつける。祥瓊は少し考えた。
「それにしても……。ねえ、陽子、浩瀚さまはお疲れじゃなかった?」
「ちょっとぼんやりはしてたけど、疲れてるってほどじゃ……。いや、それって、祥瓊。私に、物凄く失礼だとは思わないか?」
「だって……」
祥瓊はたまらず笑いだす。陽子も吹きだした。二人で涙を流して笑いあう。広い回廊に娘たちの笑い声が響き、華やかな雰囲気を醸していた。
──平和だな。
陽子は改めてそう思う。もちろん、問題もやるべきことも山積みではあるが、こんなふうに友人と笑いあうことができる。陽子はそんな小さな幸せを噛みしめる。そして、この幸せを己の手で守っていこう、そう心に誓った。
「──そんなわけで、少し時間ができたから、祥瓊も仕事が終わったらお茶でも飲みに来ないか?」
「陽子にしては気が利いているじゃない。じゃあ、もうすぐ終わるから、白端を用意しておいてね」
祥瓊は慶国名産のお茶の銘柄を指定し、笑顔を見せた。陽子は苦笑する。
「祥瓊には敵わないな」
「その代わり、何かお茶菓子を調達してくるわ」
明るく請け負った祥瓊に、陽子は笑みを返し、また後で、と手を振った。祥瓊は、その颯爽とした後ろ姿を見送りながら感嘆の笑みを浮かべる。
「浩瀚さまったら、本当に陽子の扱いがお上手でいらっしゃる……」
景王陽子の晴れやかな顔は久しぶりだった。生真面目な若き女王は、眉間に皺を寄せ、考えこんでいることが多かった。まだまだ勉強中の祥瓊は、難しい政務の相談に乗ることはできない。せいぜい一緒にお茶を飲みながら軽口を叩くのが関の山だ。
冢宰浩瀚は、若き主を陰になり日向になり支えている。百官の長・冢宰として政務に辣腕を揮うだけでなく、責務の重さに沈みがちな女王の気を引き立てる術まで熟知している。
「──私も見習わなくちゃね」
いつか陽子の助けになるために。祥瓊はそう誓い、気を引き締める。そんな祥瓊に涼しげな声がかけられた。
「主上の無鉄砲さを見習うのは止めにしてくれよ」
「──浩瀚さま。いえいえ、破天荒な主上の真似などいたしませんわ」
後ろから声をかけられて祥瓊は少し驚いたが、快活な笑みとともに拱手を返した。
「主上はたいそうお喜びでした。褒めてさしあげたそうですね」
いつも怜悧な冢宰が、ふわりと笑みを浮かべた。主のために、こんな優しい顔をするのか、と祥瓊は密かに驚いた。
「主上は勉強熱心でいらっしゃるから」
考えすぎる嫌いがおありだが、と浩瀚は続けた。
「祥瓊も主上のお力になってさしあげてくれ」
「もちろんですわ」
拱手する祥瓊に笑みを返し、冢宰浩瀚は歩き出す。主が元気だと金波宮は活気づく。友人でもある女史と主との楽しげな会話は、回廊に華やぎをもたらし、聞くとはなしに耳入れた浩瀚の心をも温めた。
主の麗しくも鮮やかな笑みが胸に蘇る。あの方が喜ぶのであれば、何でもしてさしあげたい、そう思わせる清麗な笑顔であった。
かの方と主の秘密の恋を知るものは台輔のみ。
(私は存じ上げておりました──)
そう告げたなら、主はどうするだろう。そんな思いに駆られることもある。しかし。
主を困らせる告白をするのは止めにしよう。主が己に秘密を明かしてくれる日まで俟つことにしよう。浩瀚は主の笑顔にそう誓った。
2005.09.19.
「告白」直後のお話です。浩瀚に褒められた陽子が喜んでる様を想像すると、
なんだか可愛くて、つい書いてしまいました。
三者三様の「誓い」です。
実は「明るい話が読みたい」とリクエストをいただきました。
「夢現」は少し暗めだったので、私も気分転換が必要かな〜と。
Hさま、いつもありがとう。お気に召していただければ嬉しいのですが。
2005.09.19. 速世未生 記