出 奔
「──これでよし、と」
最後の書簡に御璽を押し終えて、景王陽子はひとりごちた。書簡をきちんと積み重ねて立ち上がり、大きく伸びをする。とりあえず、手許にある仕事は全て終わらせた。傍には誰もいない。誰かが追加の書簡を持ってくる前に。
「──班渠」
陽子は足許に声をかけた。隠形して姿を見せぬ使令がくぐもった声で穿った問いかけをする。
「またお忍びですか、主上」
「固いことを言うな。仕事には限りがついたんだから」
「限りをつけた、の間違いでは?」
「とにかく、仕事は残ってない」
班渠との攻防もいつものことだ。陽子のお忍びを許せば班渠は景麒から叱責を受けるのだから。かといって、班渠を説得できなければ宮城から出ることは難しい。陽子はしばしの問答の末、誰にも見つからずに私室に戻ることができれば付き合う、という班渠の譲歩を取りつけたのだった。
陽子はこっそりと執務室を抜け出した。大僕を困らせることになるけれど、虎嘯は大らかな人だから、後で謝ればなんとかなるだろう。そんなことを考えながら歩いていたら、最難関人物を見かけてしまった。
拙い……と思ったまま、陽子は動きを止める。気配を殺すことには慣れてきた。けれど、こんなに動揺してしまったら、気が乱れて見つかるに決まってる。見つけられたなら、厳しい説教が始まってしまうだろう。陽子は息を止め、身を縮めた。が──。
件の人物はそのまま立ち去った。足を止めることも、振り返ることもなく。思ってもみなかった展開だ。陽子は息を詰めたままその後ろ姿を見つめた。書簡を携えた冢宰浩瀚は国主の執務室に吸いこまれていく。その背が見えなくなったことを確認し、陽子は更に用心を重ねて歩きだした。
その後は特に問題もなく私室に辿りついた。手早く簡素な袍に着替える。それから、溜息をつく班渠を従えて、陽子は首尾よく王宮を抜け出した。
下界は一足先に秋を迎え、木々が美しく色付いている。宮の庭院ではまだ見ることができない紅葉を、陽子は空の上から存分に眺めた。
仕事の合間に出奔することに罪悪感がないわけではない。けれど、、解放感の方が勝ってしまう。それは、己が王になりきれないからだろう。陽子は肩を竦める。
王宮で着飾っているより、里家で働いている方が性に合っていた。執務室で政務を執ることにも大分慣れてきたけれど、ときどき息苦しくなる。そうして、焦るな、と声をかけてくれたひとを思い出すのだ。無軌道だ、破天荒だと言われても、どこ吹く風と聞き流し、奔放に振舞う隣国の王。その気持ちが今ならよく分かる。
「──息抜きは、必要だよね」
「……多少であれば」
「分かってるってば」
独り言に律儀に応えを返す班渠に悪態をつく。班渠は低く笑い、それ以上諫言することなかった。空からの眺めを充分に堪能し、陽子は地上に降り立つ。班渠は陽子の足許に消えた。
草原に寝転んで秋の高い空を見やる。視線を落とすと錦の衣を纏った木々があった。頬に感じる少し冷たい秋の風。鼻腔を擽る枯れ草の匂い。陽子は目を閉じて深呼吸を繰り返す。風に揺れる草の音や、どこかで囀る鳥の声が聞こえた。
心が次第に落ち着いていく。焦らなくていい。肩の力を抜いて。手遅れになる前に、自分で自分を回復させよう。素直にそう思えた。
そう、執務室で動けなくなったことがあった。特に理由はないのに気が沈み、皆に心配をかけてしまった。あの時はどうやって立ち直ったのだっけ。
「──あ」
思い出して陽子は飛び起きた。どうなさいました、と訊ねる班渠に満面の笑みを返し、鮮やかに色付いた紅葉を眺める。綺麗なものを綺麗と思えるくらい元気になった。それは、支えてくれる皆のお蔭。
「班渠、手伝って」
陽子は立ち上がって使令に声をかける。御意、という声とともに班渠は足許から姿を現し、陽子を乗せてふわりと舞い上がった。
帰城した陽子は執務室に戻り書卓に向かった。置いていった仕事に代わり、新たな書簡が積んである。陽子は微笑を浮かべ、仕事に取りかかった。やがて──。
「主上、失礼します」
涼やかな声がする。どうぞ、と答えると、冢宰浩瀚が静かに姿を現した。更なる書簡を抱えた浩瀚は、一礼して陽子に近づく。それから丁寧に書簡を書卓に置き、退出しようとした。自分勝手に行方を晦ました国主を責めることなく。感謝の気持ちが溢れた。
「──ありがとう、浩瀚」
「いきなりどうなさったのです?」
振り返った浩瀚は不思議そうにそう問うた。前置きもない謝辞だ。そう思われても仕方ない。陽子は立ち上がり、にっこりと笑んで続けた。
「私を、見逃してくれたんだろう?」
あのとき、浩瀚は足を止めることも振り返ることもなかった。けれど、思い出してみると、少しだけ目が動いていたような気がしたのだ。浩瀚は静かに微笑する。やっぱり、と呟いて、陽子は小卓に手を伸ばした。
「お前に、土産だ」
感謝の気持ちを籠めて、鮮やかに黄葉した大きな葉をつける一枝を差し出す。浩瀚は拱手し、恭しくそれを押し戴いた。
「有り難き幸せにございます。ですが──」
「お返しの諫言は要らないぞ」
言葉を続けようとした浩瀚を制し、陽子は片目を瞑る。ここで止めなければ立て板に水のような諫言を浴びせられてしまうのだ。
「主上には敵いませんね」
怜悧な冢宰は、それだけ言って涼やかに笑った。
2010.12.11.
「embudai 閻浮提」由旬さま主催「浩陽祭」に今年も参加させていただきました。
昨年書いた小品「気鬱」、小品「秋晴」に微妙に続いている作品其の一、陽子視点でございます。
やっぱり浩陽でなくて恐縮でございますが……。
またまた拙作をお受け取りくださった由旬さま、ほんとうにありがとうございました!
2010.12.28. 速世未生 記