余 禄
開け放たれた執務室の扉から、思いがけず目に入ったもの。慶東国冢宰は唇に微笑を浮かべた。国主景王が、卓子に頬杖をつき、うたた寝をしていたのだ。
「その件に関しましては別室に資料がございますので、少々お待ちいただけますか?」
「うん、浩瀚。頼む」
そんなやりとりのあと、浩瀚は主の元を一時辞し、資料を整え、急ぎ戻ったところだった。
慣れぬ政務で疲れておられるのだろう。できれば、このまま眠らせてさしあげたいが──。
そう逡巡しつつ、浩瀚は堂室の入口から主の寝顔を眺める。その逡巡は主のためなのか。それとも、思いがけず目にした麗しい寝顔を、もっと見つめていたい己のためなのか──。
浩瀚は自嘲の笑みを浮かべ、首を振る。
(主上はいつも扉を開ける音でお目覚めになるのです)
女御がそう言っていたのを思い出し、浩瀚は静かに扉を閉めた。
主は、はっと顔を上げた。
「主上、資料をお持ちいたしました」
「──浩瀚」
「はい」
「──今のを、見たか?」
主は少し紅潮した顔でそう訊ねた。
「何を、でございますか?」
浩瀚は首を傾げ、訊ね返した。主は、ほっと息をついた。
「──いや、それならいいんだ」
主は緩く結んだ緋色の髪をかきあげながら、安堵の表情を見せた。浩瀚は微笑する。
「主上」
「なんだ?」
「お顔に墨が──」
「え!?」
素っ頓狂な声を上げ、主は顔をこすった。
──何て無防備な顔をなさるんだろう。眠っておられるときよりも、目を開けておられるときのほうが、よっぽど──。
浩瀚はくすりと笑った。
「主上、墨が広がってますよ」
「え!? え!?」
主の翠の瞳が、転げ落ちそうなくらい見開かれた。浩瀚は笑みを浮かべ、資料を卓子の上に置いた。
「取って差し上げますから、じっとなさってください」
そして浩瀚は、主の返事を待たずに、その柔らかな頬に触れた。殊更ゆっくりと、そして丁寧に、浩瀚は主の顔に残る墨を拭いはじめた。主の目が所在なげに動く。
「ま、まだか、浩瀚」
「もう少しです」
羞恥に頬を染める主の顔を間近に見つめながら、浩瀚はそう返す。
「はい、取れました」
「──ありがとう」
小さく呟く主の頬はまだ朱に染まっている。その謝辞に拱手を返しながら、浩瀚はまた、密やかな笑みを浮かべた。
2005.09.01.
某所さま主催「浩陽祭」参加作品第2弾です。
作らなければいけない文書のためにワードを開けたはずなんです。
なのに、手が、手が……。そのファイルじゃな〜い!
というわけで、もうひとつ書いてしまいました。
「余禄」……ぶっちゃけ「役得」です。で、裏タイトルは「勇気を出した右手」(笑)。
「告白」の続き、のつもりです。少〜しだけ、報われちゃってます……。
2005.09.01. 速世未生 記