「帰山で十題」其の四「月下美人」
花に託す 〜月下美人の浜にて〜
ネムさま
2015/09/04(Fri) 01:14 No.8
うっすら瞼を開くと、白い浜辺に人影が見えた。
人影の向こうには一本の白い道。黒い海の上を揺らめきながら、天の月へと続いている。
打ち寄せては還る波の音に、再び瞼が閉じようとしたが、そこへ人影がこちらに向かってきた。
「よく眠っていたね。思わず、寝首を掻きたくなった」
見下ろす利広へ、風漢は笑った。
「構わんぞ」
そして敷布代わりに敷いた上着の上で、思い切り手足を伸ばした。
「奏は良いな。首都・隆洽はもちろん、こんな南の端の田舎でも旨い酒や飯が食える。外で寝てても風邪をひく心配もない上―」
言いながら、頭上へ腕を差し伸べる。その先には純白の花が、今まさに花開こうとしていた。
「夜にだけ咲く花があると聞き及んだので、月夜に野宿と洒落こんだ。このような花の下で死ぬのも悪くない」
利広も顔を上げると、甘い香りが鼻先を掠める。浜を縁取るように広がる樹林の、その中でも一際巨大な古木の枝からは、様々な種類の植物が、玉を繋げた簾のように垂れ下がり揺れている。甘い芳香を放ちながら白い大輪の花も、それら植物の合間から、ゆっくりと目覚めようとしているところだった。
「お褒め頂き恐縮だが、風漢と
奏で出会うとは、不安になるな」
「だからいっそ首を貰おうと?留守が長くて敷居が高い家に、疫病神の首を土産に持てば、二重に安心だと」
僅かに視線を泳がせた利広の様子に、風漢は声を立てて笑い、体を起こした。
「安心しろ。奏へは帰る途中に寄っただけ。今回は才が目的だ」
あぁ、と利広は頷いた。
「私も帰って来たばかりだ。しかし、あそこは若者たちが元気だね」
「“高斗”か? 確かに言っていることは悪くはないがー 熱すぎるのが気になるな」
「年寄りには付いていけないねぇ」
「俺に同意を求めるな」
真面目に言い返す風漢に利広は笑いかけたが、声はそのまま吐息となった。
「何にしろ、あと少しだろう」
「そうだな」
二人の視線の先に、皓皓と照る白い月と、暗い海上に道のように月明かりが伸びている。そのまま海の上を歩いて行けそうな月の道も、見つめていると波の揺らぎと共に、所々煌めいては消える。
いつの間にか風漢の隣に座り込んだ利広は、海から頭上の花へと目を向けた。
「この花、一晩で咲いて萎むと、それを聞いたどこかの国の文人達が“儚いもの”の象徴として、絵画や文章に使っているそうだ」
ほぉ、と風漢が見上げて暫し見つめていたが、やがて首を傾げた。
「“儚い”割には、香りもあるし、図体もでかいな」
風漢の言い様に、利広は瞠目し、噴出した。
「風漢にかかると、風流も情緒も形無しだな」
揶揄しながらも、利広は楽しげに話を続ける。
「その話を聞いて、妹がどうしても見たいと言うから、ここまで連れてきたことがある。
月の光を浴びて次々と開く花達を見ながら“月と会話している”と言ったんだ。
確かにここの花は、ただ夢のように咲いていると言うより、月と向かい合っている風情がある」
「聡明な妹御だ」
風漢が笑う。
「奏の公主は一見桃の花のように愛らしいが、百合のように凛としたものをお持ちだ。彼女なら、月とも相対せるだろう」
「風漢でも、そんな台詞が言えるんだ」
利広は軽く口笛を吹いたが、急にこれ以上は無い笑みを浮かべ、風漢へ顔を向けた。
「今の台詞、文姫に直接言わなくていいよ。私は風来坊の義弟なんか、欲しくないからね」
「 … 心しておく」
利広の顔を視野から外そうとするように、風漢は立ち上がり、そのまま花へと歩み寄る。そして、ふと腕を伸ばし、既に満開となった花へ手を添えた。
「月に住む美女への伝言でも頼んでいるのかい」
利広の軽口に、しかし風漢は花を見つめたまま、振り向かない。
「美女もいたが、老若男女いろいろ いた。だが今は…伝えたい者は誰もいない」
そして月へと視線を移す。
「俺は、あの月の向こうから、
常世へ来たんだ」
既に遠のいた記憶の断片が、風漢の脳裡を過ぎる。
血潮に染まった空と海が闇に呑まれ、白い球体だけが浮かんでいた。やがて周囲に波風が立ち、いつの間にか湧き出た大きな獣の背に跨り、激しく泡立つ波の中、海面に映る月の光の中へと飛び込んだ。共に獣に乗った子供の髪が煌めくのを見た…。
花に手をかざしたままの風漢を、利広は黙って見つめる。
目の前の男が、世界の果てからやって来たことは知っている。利広がどれ程この世界を巡り歩いても、決して行くことの出来ない場所。この男が自分の見ることの出来ない世界を知っているという事が少し羨ましく、それ程遠い世界に全てを置いたまま、身一つで来たということが切なく思われた。
風漢が手を下ろした。小さく“未練だな”と呟きが聞こえた気もしたが、利広は知らぬ顔をして尋ねた。
「これからまた、どこかをうろつくのかい」
「そうだな」
言いかけて風漢は肩を竦めた。
「たまには早く戻って、あいつらを慌てさせるのも面白い」
「珍しく里心がついたんだ」
「そう言うお前はどうなのだ」
多少の間を置いて、利広は言った。
「首は諦めたが、土産は欲しいな。面白い話は無い?」
「無い事はないが、時間が掛かるぞ」
そう言いながら風漢は口元で、手首をくいっと曲げる。利広が笑って立ち上がる。
「向こうに荷物がある。一晩もたないかもしれないけど」
「こちらからも少々献上するぞ」
風漢は先ほど寝ころんでいた上着の下を探る。そこから小振りの甕が現れた。利広は笑いながら“すぐ来る”と手を振った。
浜沿いの樹林でも、白い花が次々と目覚めだし、月との静かな宴が始まろうとしている。