催花雨の名
AIKOさま
2016/09/11(Sun) 13:14 Home No.60
戴の冬空に珍しく雨がふっていた。
下界ほど激しくはなくとも、ここ白圭宮も例外ではない。糸をまいたように重なる雨が視界を揺らめかせる。そんな淡い景色を仁重殿の玻璃越しに見つめながら、背後に現れた主の気配に、泰麒はぽつりと言った。
「驍宗様」
柱の影から、ひとりの精悍な男が姿を現す。気がついていたか、そう呟いた驍宗に、泰麒は微笑む。視線を玻璃越しの雨へと戻した時には、驍宗は隣にいた。
「蓬来では雨にたくさんの名があるのですよ。これからは戴の冬にも雨がふって花が咲くかもしれません。こんな雨の名を、なんと呼ぶのでしょうね」
ふりしきる雨は凍りついた雪を溶かして、埋もれた花の頭をちらつかせる。だけどその名を知るより先に祖国を去っていた幼い麒麟は、目の前の白景色を慈しむように溶かす雨に、名をつけられるはずもなかった。
「雨は雨だ」
驍宗は表情を変えぬまま呟く。
戴の冬に雨はあまりふらない。冬はほとんど気温の関係で空高くで水滴が冷え、凍った雨が雪へと変わってしまうからだ。冬が終わり春に向けて気候が緩んだ途端、思い出したようにぐずぐずと雪は消えてゆく。
泰麒は気がついた。張り詰めたような緊張感を漂わせながら―――驍宗の横顔が、どこか遠く疲れを滲ませていることを。王は言葉を重ねる。
「それほどたくさん、何かに名をつけて何になると言うんだ」
「ひょっとしたら……人が何か願いを込めるものほど、たくさんの名があるのかもしれませんね。きっと、雨もまた、そうなのです」
どう説明すれば良いだろう。話の継ぎ穂を探す泰麒の脳裏に、先生が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
「そう言えば、崑崙のお隣、西アジアと呼ばれる地域で信じられているある神様は、千もの名前を持つそうです」
あぁ、と驍宗の横顔が、何かを理解したようにかすかに和らいだ。
「神の名、か。そう言われてみれば、お前もたくさんの名を持つな」
泰麒はきょとんと驍宗を見上げる。視線を伏せた驍宗は、ふっと口元に弧を描く。
その日初めて見た彼の微笑みに、泰麒は思わず呆けた。
「確かに一利あるかもしれない。お前の言うとおり、それ程あまたの名を持つものは…それだけ人々の願いが込められているからかもしれないな」
驍宗は踵を返す。
「邪魔をしたな。早く休め、明日も早い」
もうすぐ泰麒は漣へと旅立つ。驍宗ともしばらくは顔を合わせることさえできない。常にそばにあるべき二人なのに、今の時間でさえ恋人たちの刹那の逢瀬のようで皮肉だ。
驍宗の精悍な後ろ姿は厳しさを湛えた佇まいなのに、刹那、過ぎ去ろうとした紅玉の瞳は、泰麒を映し穏やかな光をたたえていた。
「驍宗様」
泰麒は、思わず声を上げていた。だけど言葉を継げず、口ごもる。
今までの玉座に王がいない状況は、戴の冬を更に厳しく凍らせていった。
だけどこれからは、玉座に王がついたから。
南国漣ほどまではいかなくても。冬の寒さを溶かすようにもっと雨がふるようになるだろう。泰麒が帰って来る頃には、この国は春へと更に歩みを進める。その時は。
「驍宗様は名をつけられるのが、お上手です。次に戴に雨がふった時……僕と一緒に、ふたりだけの雨の名前をつけましょう。驍宗様」
あなたは、ずっとひとりで戦っているようだから。
雷に打たれたように、驍宗の足が止まる。
驚いた王の顔を見たのは、すべてを受け止めるように微笑む幼い彼の麒麟だけだった。
:::
残照が少女王の横顔を鋭く射抜く。開け放たれ玻璃を越さない日差しは、斜めに太く差し込む。重なる光は、少女の頬の境界線さえ消す強い輝きで、視界を奪う。
慶国金波宮。陽子は先日泰麒と李斎が消えていった方角を見つめていた。背後に走った気配に、ふっと陽子は微笑む。
「お前には、どこにいるのか筒抜けだな」
いるんだろう、出てこい。そう言えば、影から姿を現したのは景麒だった。
陽子は静かに振り返る。
輪郭を溶かすほどの、強い輝きを背追った少女の表情の反面には、憂えるような陰影が宿る。微苦笑した陽子は、まつ毛を伏せ、ぽつりと呟く。
「高里君の主……泰王は、どんな王だったんだろうな」
そうですね、そう呟いて景麒は言葉を選ぶ。
「彼はあなた様と同じく同じ武の王であり、同時にあなた様と正反対の気質を持つ王でした」
恐ろしいほどに迷いがない。そして全てを一手に背負おうとしているように私には見えました。
とうとうと連なる言葉に、陽子はただ半身を見つめる。
「だけど結果、何があったのかは分かりませんが、王は玉座にあれぬ状況にいます。そして私たちも。戴を助けようにも未だ慶はどのような国になるのかさえ、見えていません」
ため息ではない吐息が、麒麟の口から漏れる。
ですが、だからこそ。
「見てみたいのです。あの王が‥‥もし泰王驍宗が戻るのならば‥‥どんな王となるのか」
また再び雪の中に眠ろうとするあの国がどうなるのか。
「戴の民が‥‥彼らが‥‥どんな国を作るのか」
堂室の奥深くまでにじむ蜂蜜色の輝きが、黄金の鬣の輪郭を浮かせる。
陽子は思わず僕を見つめる。
夕日は無表情な紫水晶のような瞳の奥底にまどろむ真意を照らす。まぶしすぎる透明な輝きに、耐え切れないように景麒はまぶたを落として、呟いた。
「見てみたいのです」
慶国の麒麟の唇から漏れたのは、祈りのような、声だった。
:::
戴国へ通じる、雲海の上空。吹きすさぶ風は、切るように鋭い。
小さな二つの点となって移動する泰麒と李斎の姿があった。ふと顔に水滴があたった気がして、泰麒は思わず声を出していた。李斎。
「知っていますか、雨はもともと海や湖の水や、地面にふくまれている水が、少しずつ蒸発して天に昇ったもので出来ているそうです」
「蓬来では、面白いことを教えるのですね」
そうですね、そう泰麒は微苦笑する。では。
「戴の地で流された血も、地に伏した誰かの涙も、天に昇るのでしょうか」
李斎の脳裏に、かつて雪の上に散った真紅の色彩が見えた気がした。
王と麒麟を待ち、真白の中に消えた者たちが、見えた気がした。
雨はかつて地上にいたものの願いが霧となって、天へと昇ったものなのかもしれない。そうして雨として地上に降り注ぎ、新たな命を芽吹かせ、この世はめぐりゆくのだろうか。
「天から降りる雫は、誰かの想いが舞い下りたものなのかもしれませんね」
凍りついた想いは雪片となって、再び景色に真白を重ねる。見えぬ国の未来を更に濃い白に埋めるように。そんなことを思う李斎に、ぽつりと声が投げかけられた。
「李斎」
ごめんなさい。唐突に泰麒の口から漏れたのは、歪んで震えた声だった。李斎は、ぶたれたように、振り返る。泰麒の涙が一筋すべっていく。
「僕は戴の涙の存在さえ、忘れていたんです」
「台輔……」
李斎のつぶやきに、泰麒は自嘲するように続ける。李斎を追い抜き、泰麒は前へ出た。
「今でも思います。僕には何ができたのか。自分を責めるのが無意味なことだと知りつつも、僕は振り返らずにはいられません」
吐息は白く凍り始める季節へと移り変わってゆく。
「僕はずっと待ってばかりだったんです。生涯で一番大切な―――王を決めるときでさえ、驍宗様の方から訪ねてくださったんです」
うつむいた泰麒の鋼色の鬣を、風が散らかしていく。
「ずっと、待っていただけだったんです。僕が何もしなかったことで、僕は―――どちらの故郷も失った。慈悲の神獣と位置づけられるには、僕は罪深く、汚れすぎました」
忘れていた、ですませて良かったのだろうか。何もせずにただ受け身でいることしかできなかった泰麒。独善を貫き玉座に戻れなかった驍宗。謀反により追われ、罪はないはずだった泰麒と驍宗は、気づけば誰よりも罪深くなりすぎていた。
李斎はそんな泰麒の後ろ姿を見つめ、呆然と言う。
「台輔が穢れているのならば‥‥私はもっと罪深いです」
景王の顔が、虎嘯の顔が、桂桂の顔が浮かぶ。
一度は、戴のために、彼らを。
「私は‥‥戴を救うために‥‥」
だけどその言葉尻を、麒麟が攫った。
「あなたは、慶を沈めてでも、戴を救いたかったんですよね。けれど。あなたは慶を沈めることができなかった。だからこそ‥‥慶も想い、そんな身勝手になりきれないあなたの意思が僕を連れ戻した」
振り返らず、泰麒は微笑んだ。
「李斎、あなたは、変わらず優しいですね」
隻腕の将軍は、瞳を見開いて、振り仰ぐ。まるで溢れる涙を超えた何かをこらえるように。李斎は唇を、痛いほどに噛んでいた。
光を打ってなびく銅色の短い鬣が、翻る。
泰麒の記憶の中の、彼の人の白銀の髪が翻る。
驍宗様、僕もあなたも。随分と時間を無駄にしてしまいましたね。
だけど。
それでもまだ、許されるのならば。
僕はあなたと―――もう一度、雪に凍りゆく真白の世界を溶かしてみたい。
「ありがとう李斎……あなたのおかげで、今度は―――僕が、驍宗様をお迎えに行けるんです」
巡り巡り、また冬が来る。
『僕と一緒に、ふたりだけの雨の名前をつけましょう。驍宗様』
ねぇ、驍宗様。
あなたと見た、あの日の雨の名を、僕はもう知ってしまいました。
あの日の雨は、新王を迎えた戴におりた、花を願う雨そのものだったんですね。季節は冬だったけれど、あの時もし僕が雨の名を知っていれば。僕はあの雪を溶かす冬の雨こそを、これから戴に芽吹く花を育てる催花雨と呼んだでしょう。
今度冬の凍りついた載に雨がふって雪解ける時―――僕らが催花雨を見られる日は、重なる願いが届いた時です。
『死気はやがて生気に転じる。死者もやがて生者に還ろう。―――蒿里、おまえが戴にとってもそのように、再生を約束するものであるように』
ねぇ驍宗様。
ふり落ちる雨が、この地に沈んだ誰かの願いが、天に上がって再び帰り着いたものだとしたら。贈られる名の数が、人の祈りの数だというのなら。
僕に名をくれたあなたは。その時ふり注ぐ幾千もの願いに。真白の景色を溶かす涙のような暖かい雨に。
どんな―――――名を贈るのでしょう。