今宵、海へ
饒筆さま
2016/09/21(Wed) 02:25 No.155
じゃりっ!軍靴に踏みにじられ、砂礫が高い悲鳴をあげた。
李斎は片眉を跳ね上げる。
――常時掃き清めているはずの回廊に、なぜこんな砂粒が?
次いで、聞こえる筈のない音が聞こえた。咄嗟に前栽を睨む。
……地の底で良からぬ蟲が騒いでいる。
それも一匹や二匹ではない。奴らは冬の間に仲間を増やし、無数になって蠢き、時を得て猛然と地表へ這い上がってくる。
そんな感覚がして――ぞわり。李斎は我知らず己の腕を掴んでいた。
「どうした李斎」
先を行く王が振り返った。
なんと敏い御方だろう。数歩後ろに従う李斎の身震いさえ察知なさるのか――もしくは、元からこちらを窺っておられたのだろうか。まったく気づかなかった。李斎は舌を巻く。
「いいえ、何もございません」
片膝をついて畏まった拱手を捧げるも、王は踵を返し、虎を思わせる足取りで李斎に歩み寄る。
「何事もないという顔ではないな」
そして李斎と同じ前栽に一瞥をくれ――表情を消したまま、瑞州師将軍に視線を戻した。
「しゅ……」
奏上を続けようとした李斎を、
「言うな」
驍宗は強く制す。李斎はただ目を伏せて従う。
――何を言ってはならないのだろう……?
「李斎」
名を呼ぶ声が、思ったより近い。
驚いて面をあげれば、御身を屈めたのか、至近に迫る紅玉の眼に囚われてしまった。烈火を封じ込め、底光りする眼だ。その覇気をこちらに注ぎ込むような視線がずしりと重い。目を逸らすことができない。
李斎は双眸を見開き、息を呑む。
全ての音が消えた。
驍宗は静かに切り出す。
「今宵、海に出る。李斎も来い」
李斎は粛々と黙礼を返す。声など出せるはずもなかった。
◇◆◇◆◇
ここ、戴国においても雲海は決して凍らない。厚い雲によって隔てられた下界が雪と氷に閉ざされようとも、雲上の海は穏やかで陽は昇り星が出る。特に春先の今はベタ凪が続き、時に寒風が吹こうとも船遊びには適しているのかもしれなかった。
驕王が建造させたと云う二階建ての龍船は、その豪奢な船室に王と李斎を乗せ、満月を過ぎた月に向かってゆったりと港を出た。淡く輝く瀟洒な白圭宮がゆるゆると遠ざかる。
李斎は大いなる疑問と軽い苛立ちを抱いて、大きな玻璃窓の下の榻(長椅子)に腰を下ろした。
――なにゆえ主上は、私に貴妃の御衣を下賜くださったのだ……?
有り体に言ってしまえば理由はひとつしか思い浮かばないし、心当たりがまったく無いとは言えない。しかし、李斎には「今更まさか」という思いがある。白圭宮への招聘以降、お互いに知らぬ顔を貫き通してきたのだから。まさか今更蒸し返すなんてことは……ない、のではなかろうか?
――このような任に適した娘なら、他にいるでしょうに。
李斎は女である前に将軍でありたい。我慢できずに溜め息を吐いた。
驍宗はまだこの居室に現れない。
暇を持て余して玻璃窓に向かい、ゆったりと流れ去る暗い海を眺める。
この向きでは欠けた月は見えないし、壮麗な白圭宮からはずいぶん離れてしまった。だが、そのぶん星が綺麗に映る。夜空を埋め尽くすささやかな瞬きが、ささくれだった神経を見えない手でそっと慰撫してくれた。
――そう言えば、子供の頃はよく草原に寝転がって星を眺めた……これよりもっと美しかった。
極北の地に住む少女にとって、それは夏だけの贅沢な時間だった。
そうだ。李斎はふと思い立って、これほど静かな時間を味わったのはいつ以来かと指折り数えてみた。白圭宮に赴任したばかりの頃は緊張と高揚で気持ちが振り切れていたし、悩み多き冬狩を経て、最近は……それが何故なのか、理由はわからない緊迫感が膨らみ続けて息苦しい。まさに心の休まる間など無い。新王朝の始まりはとかく不安定だというが、これほど整然と立ち上がった驍宗様の朝でさえそうなのだろうか?
我知らず、手持ち無沙汰になったもう一方の手が、敷かれた毛皮を掻く。
「待たせたな李斎」
音もなく開いた扉から、やや寛いだ姿の驍宗が現れた。
いったん離席し慣れぬ女礼をとる李斎に、飾らない仕草で同席の許可をとる。李斎が首肯して脇へ譲れば、王は鷹揚に腰かけて弁解した。
「すまない。出航間際に難題をふっかけられて、少し考え事をしていた」
「いいえ。お構いなく――逆に、お邪魔ではありませんか?」
「自ら呼びつけておいて、邪魔などと言うものか」
明るい苦笑に続いて投げかけられた視線に過分の色艶を感じ、李斎はさりげなく窓へ顔を逸らせた。それに誘われたのか、驍宗も李斎の横顔から夜の雲海へ、そして遠く月光を浴び夢幻のごとく浮かぶ白圭宮へと目を移す。
「……麗しいな」
感嘆とともに零れた呟きはきっと白圭宮に贈られたものだろう、と李斎は思った。
「李斎」
武骨な手が伸び、李斎の手を取る。李斎が戸惑いつつ向き直れば、王は真摯な真顔で告げた。
「私は轍囲に赴く」
李斎は括目し口を引き結んだ。だが驚きはしなかった。元々座して見送る御方ではない。様々に異論はあれど、その決定は実に驍宗様らしいと納得した。
「その間、くれぐれも蒿里を頼む」
「承知しました。微力ながら全霊をもってお護りいたします」
女将軍は頼もしく微笑む。またも苦笑が返ってきた。
「李斎の働きが微力であるものか。蒿里が日々穏やかに過ごせているのは李斎のお蔭だ」
「そんな。台輔が日々濃やかなお気遣いをくださるので、私は精一杯お応えしているだけです。それがお役に立っているのならば幸いです」
「李斎はもっと己を誇るべきだ。蒿里にとっても、私にとっても李斎の存在は大きい」
握られていた手を大きく引かれた。李斎はあえなく王の胸元へ倒れ掛かる。燈火が揺れ、くべられた香がふわりと広がる。李斎は自然と寄った身を驍宗に任せつつ、それとなく腰を浮かして背を向けた。
敷物の伝統紋様を目でなぞりながら、そもそもの問いを投げかける。
「……何故、私をお召しになられたのです?」
驍宗が薄らと笑みを刷く気配がした。それから王は李斎の耳元に顔を寄せて囁いた。
「蓬山の夜を忘れたか」
滴るような言の葉が耳朶で溶ける。それが甘やかな痺れを呼び、李斎は軽く身を捩る。驍宗は逃さぬ、とでも言いたげに柳の腰を強く引き寄せた。
「私は忘れない。素晴らしい夜だった」
追い打ちをかける艶めいた声に、李斎の輪郭をなぞりながら滑りおりる指に、かつての享楽を思い出す。李斎は大きく息を吐き、こみ上げる感情を逃がした。
「私も憶えております。が――」
顎を上手に掴まれ、強引に振り向かされた。瞬く間にあの重い視線に絡めとられてしまい、李斎は逃げ場を失う。
――あの夜はきっと、お互いにどうかしていたのでしょう……
続けるはずの抗弁が霧散する。
「ならば」
驍宗の唇が迫る。李斎は尚も抗う。すると、驍宗が不意に静止した。
「もしや、腹を立てているのか?李斎」
まさに今気が付いた様子だ。澄ました紅玉の眼が李斎の瞳を覗き込む。
「……腹を立ててなどおりません」
我ながら情けないことに、李斎が発した声はずいぶん拗ねた風に聞こえた。
驍宗は喉を鳴らして笑う。
「そうか。これまで冷たい素振りをしていたことで李斎を傷つけていたのなら、それは申し訳なかった」
それから驍宗は大きな温かい手を開き、李斎の頬をそっと包んだ。
「李斎を瑞州師に招いたのは私情ではない。李斎の勇と才が必要だからだ。そう考えたのは事実だし、口さがない連中にそれを周知させるために、この想いは敢えて隠してきた。そして今、李斎は期待以上に我が朝に貢献している。私は本当に鼻が高い。だから、李斎にも存分に胸を張ってもらいたい」
李斎は目を見開き、次いで仄かに頬を染めた。
招聘に関しては勿論良い評価をいただいたからだろうとの自負を持っていたが、それでもこの御方の口から直接お褒めに与るとつい、舞い上がってしまう。
「ありがとうございます……光栄です」
李斎がようやく心からの微笑を浮かべた。驍宗の目元も僅かに緩む。そして今度は驍宗が嘆息する番だった。
「だからこそ――そんな李斎に情けないところを見せるのは心外なのだが」
「?」
「このところ己が頼りにならず、苛立たしい。意はとう決しているというのに、考えは千々に乱れて何も手に付かない」
柳眉を寄せて見守る李斎に、驍宗はひたと紅い眼を据える。
「私は今そんな苦境にいるのだ、李斎。頼む。今夜はおまえに甘えたい」
「あ……(甘え?!)」
ついに驍宗が性急に唇を重ねた。目を丸くしていた李斎はとっさに反応できず、ただ瞼を下ろす。久方ぶりの口づけは少し硬い。だが一度触れてしまえばすぐに燃えあがって、過日の激しさを取り戻した。逸る情熱のままに求める。熾火が盛るように応じる。李斎の身の内で歓喜が湧く。今宵の自分も十分、どうかしている。
外は未だ去りなずむ冬の夜。玻璃の向こうには静まり返った銀波と凍える月。それでも二人は絡み合い、快楽の在り処を探り、相手の熱に浮かされて囁きを交わす。
「あ……甘えておられるんですか……?」(これが??)
「甘え以外の何でもなかろうが……李斎、そこまで驚くな」(苦笑い)
「驚いて当然です!第一、主上がそんな――」
黙れと言わんばかりに攻められて、堪えきれぬ嬌声が紅唇を割って洩れる。
◇◆◇◆◇
清冽な朝陽が夜の蓋をこじ開ける前に、龍船は速度を上げ、波を蹴立てて帰路に就いた。
離れがたい二人は素肌のまま睦みあい、いつまでも支度をぐずっていたが、いよいよ白圭宮を望む頃になって李斎がその身を引いた。
愛しい人の大きな上着を取る。そしてその肩へ掛ける前に、広い背中に願いを込めた接吻を落とした。
「どうぞご武運を」
そのとき振り返った驍宗が見せた柔らかな笑顔を、後日、遥か遠い慶東国で切なく思い出すことになろうとは――このときの李斎には想像すらできなかった。
<了>